feeling
みんな、ただ感情が満たされるものを追い求めている。だから気が付かないうちにわけのわからないものに巻き取られて自分を見失っていく。
科学に関わると、"2つの事象には因果関係があり疑似相関に陥ってないか"ということと、"根拠は本当に信頼に値するものか"ということが重要だということが分かる。
擬似相関(ぎじそうかん、英: Spurious relationship, Spurious correlation)は、2つの事象に因果関係がないのに、見えない要因(潜伏変数)によって因果関係があるかのように推測されること。擬似相関は、客観的に精査するとそれが妥当でないときにも、2つの集団間に意味の有る関係があるような印象を与える。 2つの(確率)変数間の擬似相関は、第三の原因変数を導入することで生み出される。換言すれば、A と B の間の相関を見出す。従って、考えられる関係としては次の3つがある。
A が B を発生させる
B が A を発生させる
または
C が A と B を発生させる
最後の関係が擬似相関である。そのため、「相関関係は因果関係を包含しない」とよく言われる。
出典:wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E4%BC%BC%E7%9B%B8%E9%96%A2
つまり、自分の信じたい説を補強できるようなデータを集めて一見筋が通っているように見せることは科学的ではないということだ。
そして自分が根拠にした説や数値は誰かのその時限りの思いつきではなく公的もしくは確かに実証されたデータであるかということは逐一確認してかねばならない。
科学者は日々新しい発見を追求するとともに、これらの「学説は本当に正しいのか」という証明に注力しており、その弛みない努力には本当に頭が上がらないと感じる。
そしてこれらの"因果関係"と"根拠の確実性"は決して科学の範囲だけではなく、言葉による主張においても重要であると私は思うが、科学というものに触れたことがない人はこの感覚が圧倒的に欠けているように見える。
たとえばエセ医療に引っかかってしまうような人は、「治ること」そのものではなく「治った"気がした"」ことが重要であるため、因果関係が証明された科学的根拠に基づいた意見ではなく、耳障りの良いだけのまやかしの言葉を信じてしまうのではないだろうか。
また主張が論理的に破綻しやすい人は、自分の考えに沿った意見のみを選び、自分の説の正しさを実感して"安心"することが目的になっている。感情において"気持ちが満たされる"ことのみを追求しているので、そのとき限りの場当たり的な主張になり、一貫性が失われているのだと思われる。
議論をするにあたってまったく日本語が通じない人がいるが、そもそもこういった前提が違うために平行線の会話が延々と続いてしまうのだ。そして相手を論破し、"自分の正しさを証明すること"が目的になっている。だからお互いの相違点を確認しあい、2つの主張の妥協点を探るといった解決の道筋には至らず、ただ無駄なエネルギーを消耗する自体に陥る。
感情を基準に物事を考えると自分の気に入らないものは悪になり、それを憎むことで被害者意識がつのり、さらに悪を見出すといった負のループに陥りかねない。
自分の感情と向き合い本心を認めていく作業は自己肯定感を持って生きていくには不可欠だが、また同時に感情に振り回されていないか、理性的思考を見失っていないかということにも意識して取り組んでいかねばならないのだと思う。