misunderstanding
人が一番怒りを感じる瞬間は「自分が誤解されたとき」だと思う。
人間はまず「絶対に分かり合えない」という前提があると思う。
人間とは本質的に思考を共有することができず、理解し合えない生き物だと思う。「相手を理解した」と思ってしまうのは、自分と似ているかも知れない、同じような体験をして同じような感情を抱いたのかもしれないという予測に基づく共感を、「理解できた」と認識するからだと思う。
だからこそ、絶対的に理解し合えないという前提があるからこそ、人間は「自分のことを分かってもらいたい」「自分の気持ちを知ってほしい」と願ってしまうのだと思うし、「本当の自分を見てもらえないこと」は悲しみと怒りを伴い、「自分が誤解されること」は筆舌に尽くしがたいほど許せないと思う。
例えば小学生のころに、このテレビ番組を見終わったら宿題をやろうと思っていたとしても、母親に「早く宿題をやりなさい」と叱責されたら自分の中にあったもともとのやる気は嘘のようにしぼみ、ふてくされて周りのものに八つ当たりしたくなった経験はないだろうか。そのような過去がなくても、似たようなシチュエーションは誰しもが経験したことがあるだろうし、この怒りに共感してもらえるのではないかと思う。
つまりこの場合で言えば、「テレビなんて見ないで早く宿題をやりなさい」という母親の叱責の言葉は、子供の「テレビ番組を見終わったら宿題をやろう」と考えていた"本当の自分"を母親は理解してくれず、あまつさえその逆であるのだと思い込まれていたのだという事実をつきつけられることになるわけである。まるで自分にやる気がなかったとでも言うような言葉をかけられ苛立ちを感じるのは、まさに「自分が誤解されるとき」の怒りの感情ではないだろうか。
そしてこの怒りのメカニズムを理解していれば、自分が苛立ちを感じたとき、どのような言葉にどのような意味が含まれていたからそう感じたのであるということを冷静に判断し、怒りに飲み込まれることも少なくなるのではないかと考えている。
何事もその場の勢い任せにしてしまうのではなく、自分の感情さえも考察の対象であると客観的になる姿勢が大切だと思う。感情とは馬のようなもので、暴れ馬のようになって手がつけられないことも多いが、というかそのようなことばっかりであるとも思うが、きちんとしつければより自分をコントロールし、より大きな推進力をもたらしてくれるのではないかと思うのだ。