"不安"と"緊張"という扉の先に
「まじ吐きそう」
ほんの2時間前の私が友人に送り付けたメッセージ。
いやほんとに、数年ぶりに吐きそうだったの。
吐きそうなくらい、緊張してたってこと。
「嬉しすぎて緊張してまじ吐きそう」
なにせずっと憧れていたNASAの方とのご対面。
(わたくしこう見えてぽんこつですが宇宙論出身リケジョです。)
緊張しないわけがないし、言いたいことを彼女との1時間の間で話しきれる自信もなかった。
でもこの感覚は、すごく覚えがあって、
それはデンマークで訪れた、私の人生を変えたひとつの出逢い。
本当に極度の緊張で何を話したのかも覚えてないくらいだけど、
でもその時間を超えて、確実に私の人生は動いた。
だからこの吐きそうなほどの緊張が、
確実に私の世界をまたひとつ広げてくれる確信があった。
だから私はとにかく無心でその時が来るのを待った。
ポーン
Google Meetが入室者の知らせを鳴らした。
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私たち家族がテキサスからデンマークに到着したのは2015年の夏で、まだ外は涼しく、街角で売っていた革ジャンを羽織ってちょうどいいくらいの季節だった。
息子は当時2歳半になっていて、テキサスにいた時には手元でゆっくり育てていたんだけれど、デンマークではそろそろ幼稚園に入れなくてはと、到着してしばらく息子と街散歩を繰り返し数週間を過ごした後、息子を初めてデイケアへと連れて行った。
長時間私の手元を離れるのは初めて、しかも最初はインターナショナルのデイケアだったため英語(テキサスではほぼ彼は英語に触れていない)にもかかわらず息子は初日から笑顔で私を見送り、そこをはなれたらすぐ携帯に電話がくるんじゃと心配する私をよそに息子はエンジョイ。
子供が自立の一歩目を歩み始めたその日、私はものすごくひさしぶりにひとりで近所の公園のベンチに座り、嬉しくて寂しくてぽろぽろ涙が溢れた。初日は慣らしでたった2時間だったにもかかわらず、その時間は長くて、今でもその時に座っていたベンチの色を覚えてる。
その後息子はインターから地元デンマークの公立の幼稚園へ移動。今度は英語からデンマーク語へと切り替わったにも関わらず、ここでも彼はまたすぐに幼稚園へなじみ、毎朝玄関先で泣くどころか、私の方を振り返らず幼稚園へ走り出す始末。なんやかや頭で考えてしまう私を差し置いて、子供とはなんて純粋にまっすぐに相手の懐へ飛び込んでいけるんだろう。その姿に背中を強く押されたような気分になった。
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デンマークへ移ってきた私にはひとつ、どうしても成し遂げたい目標があった。それは、
「デンマークでしか体験できないこと学べないことを、後悔しないくらいとことんチャレンジして、デンマークの人たちのコミュニティに今度こそ繋がりをちゃんと持つこと。」
それは、テキサスにいた時、本当に初めての子育てと海外での暮らしの中で生き抜くことに必死になりすぎた故にできなかった<その土地のことを知り、その土地の人と繋がること>をデンマークでこそ絶対に実現する。
これが私がデンマークに来た時からの自分への誓いだった。
なぜ私がそう思うようになったか。
それは、そうじゃないと、その土地を自分の「ふるさと」だと呼べないと思ったし、いつかその土地へ戻った時に「おかえり」と言ってもらえない、ただの"お客さん"でしかいられないと思ったから。
世界を転々としながら居場所を探し続けてきた私にとっては、「住んでいる土地を新しい自分のふるさとにする」というのは、本当に何より大事なミッションだった。
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幼稚園に通い始めて息子が私の手を離れてから、私には時間ができ、自分がこの土地でなすべきことはなんだろうかと考えるようになった。
その時にふと考えたことは
「デンマークの大学に行くことはできないだろうか」
ということ。
私は大学は物理学科を卒業してはいるものの、当時興味があったのは教育分野。特にデンマークでの教育に興味をもちかけていたので調べてみたら、なんとコペンハーゲン大学にDepartment of Science Education(科学教育学部)なる大学院の学部が存在したのだ。
「え?これ、私が今絶対行くべきところじゃない?」
ご縁を感じちゃったんですよね。物理学科卒で、テキサスではサイエンスワークショップを通じて科学教育に興味を持ち、デンマーク教育にも興味を持ち始めていた。しかもそこは英語で授業を受けることが可能。デンマーク語ができなくても、物理学科の学位があれば受験資格がある。
ただ当時問題だったのは、通常デンマークは大学まで学費は無料なのだが、私はEU外の人間のため学費がもちろんかかってしまうということ。約200万ほどの費用を、小さな子供を抱えてしかも海外を飛び回ってお金もない私たちがどう出せると言うんだろう。奨学金も手当たり次第探したが、そのほとんどが年齢を理由に対象外。
そこで私は一縷の望みをたくして、一本の簡単なメールをDepartment of Science Educationの入試担当の教授へ送った。それはシンプルに、この学科に入りたいと思っているが、どのようなサポートの可能性があるだろうかという問い合わせのメールだった。
するとすぐ翌日に、教授からメールが届いた。
"If your academic background and research interests match those of our department, and you wish to discuss the possibilities of admission as a PhD student, I will be happy to discuss that with you. But I will need some more information about your background and research interests in order to understand how I might be able to help you."
もしあなたの学歴や研究テーマが当学部のものと一致し、博士課程の学生として入学する可能性について相談したいのであれば、喜んで相談に乗ります。 ですが、私がどのように役に立てるか考えるために、もう少しあなたの経歴や研究テーマについて教えてもらうことはできますか。
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その時実はすでに私はかなり感動していたんです。
だって、本当に私は夫のつきそいでこうやって海外を転々としたりしていたけど、それは全く自分の実力とは関係のないもので。大学時代の成績はそれはそれはぽんこつ。英語ももちろんできなくて、本当は大学院で留学して夫と同じアメリカにいこう!なんてあまっちょろい考えて受験を考えては、試験を受けにわざわざNew Yorkまで行ったのに、本当にどーでもいい理由で諦めてしまったような人間なんです。思い返したら本当に恥ずかしくて穴に入りたくなるくらい。
アメリカ時代も結局ほとんど日本人の仲間と過ごし、それはそれで本当に充実した時間で、素晴らしい仲間と出会えたけれど、私はヒヨって現地の人たちとのコミュニケーションのチャンスをびっくりするくらいフイにしてきた。
英語を習いに教会に行くも、数回で溶け込めず断念。公園で出会った現地のママにランチに誘われても、勇気が出ず断る始末。本当になにもできなくて、悔しくて悔しくて悔しかった。
やっと現地の人とコミュニケーションが取れたのは、テキサスを去るほんの数ヶ月前、現地で3年遅れの結婚式を挙げた時。
人って、伝えたいことがある時には、必死になれるんだってその時に知った。一生に一度の結婚式を絶対いいものにしたかったし、妥協なんてしたくなかったから、自分でも驚くほどにつたない英語ではあったけど、ちゃんと意思表示もコミュニケーションも取ることができた。それは本当に初めての経験で、目から出た鱗で滝ができるくらいの経験。
なんだ!こうやってコミュニケーション取ればよかったのか!
そう思うと同時に、ほんの数ヶ月先に迫る引っ越しを思って、なんでもっとがんばらなかったんだろうと悔しくなった。
だから、まず自分がやりたいことを伝えたら、しっかりそれを受け取りメールが返ってきたこと。さらにその実現のために力になるよ、と現地の人に、しかも教授に言ってもらったことが本当に嬉しすぎて、その返事にはまる一晩徹夜しながら、必死になって自分の想いを長い長いメールにしたためて返事を送った。
自分が勉強したいと思っていること、ただ費用や期間面(修士課程がなく博士課程飲みだった場合、滞在ができない)で入学が難しくても、どんな形でもいいから学ぶチャンスがあれば教えて欲しいということ。
するとまた翌日、返事がきた。
"Even if it doesn't pan out with your enrollment, I would be happy to meet with you to discuss possible ways to work together, so let me know when you have arrived in Copenhagen and we can meet for a talk."
もし、あなたが入学できなかったとしても、会って一緒にどんな形でだったら仕事ができるか話せたらと思っています。コペンハーゲンに着いたら教えてください。一度話をしましょう。
なんと、直接あって話してくれると言うではないか。
また飛び上がって喜んだのは、言うまでもない。
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その場所は、コペンハーゲン市の中央にあるノアポート駅からほんの2分のところにある大きなボタニカルガーデンの中にあった。そのガーデンには夏らしく青々とした木々や、色とりどりの花が咲いていた。
私は予定の時間より1時間も早くそこに到着し、カフェで買ったコーヒーを片手にその庭を散歩して気を紛らわせていた。なにせ、私は正直当時英語がろくにしゃべれないのだ。海外の人と1対1で話したのなんて最長10分程度だったと思う。(結婚式の打ち合わせには友人や夫が同席してくれていた。)
その時の私の気持ちを表現するなら、
「ワクワク」ではなく、きっと「ゾワゾワ」が正しかったと思う。
嬉しさ20%、ワクワク10%、そして不安が70%。
そもそも会話は成立するんだろうか?
彼が話している内容を理解できるだろうか?
私はちゃんと話したいことを話せるか?
「何言ってるんだこいつ」と呆れられないだろうか?
前の晩は緊張して眠れなくて、かといって原稿に書き出してみようとするも思考がパンク。とにかく緊張で心臓はバクバク、手からは冷や汗。コーヒーを持つ手も震えていた。
だから早く家をでて、ガーデンを散歩してから向かうことにしたのだ。
デンマークの公園では、よく人が寝転がって昼寝をしている。
子供たちは走り回り、ベンチではゆったりと本を読んでいる人も、昼間っから太陽の光を浴びてビールを飲んでいる人もいる。
彼らは少ない太陽の季節を、存分に楽しんでいるのだ。
私はそんな彼らの横を、いつもよりゆっくりめに歩いて、ガーデン中央の池のまわりを一周した。何度も深呼吸をして整えようとしては失敗して、そのまま辿り着くべき建物へ一歩ずつ近づいて行った。
その道は、途中から石段になっていて、その石段の横はちょっと背の高い雑木林のようになっていた。
一段、一段と、
ゆっくり踏み締めて登ると、
その光景はまるでトトロでメイがたどり着いたあの木のトンネルのようで、
ざわわとゆらめく木々の音色が映画のワンシーンを見ているよう。
その一瞬を私はすごくすごく強烈に覚えていて、
それはなんだか、自分が小さい頃に読んだ
物語の主人公になったような気がしたから。
おかしいですよね。
ただ単純に人にメールを送って、会う約束を取り付けただけなんですよ。
でもそれが、当時の私にとっては、
天地がひっくりかえるくらい、大きな出来事だったんです。
天文台を持つその建物は、白くてそしてところどころ軋んでいて、歴史を感じる美しい建物だった。迎えてくれた教授は私を居室へと案内し、コーヒーを一杯淹れてくれた。まだブラックが飲めなかった私は、それを無理矢理飲みながら、拙い英語で身振り手振りで教授にその想いと感謝を伝えた。教授はとてもわかるよ、一緒にできることがありそうだね、と色んな可能性を伝えてくれた。1時間ほどの時間の間、会話は途切れることなく、とても充実した気持ちで高揚と共に家に帰宅した。
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結論から言うと、私は大学へは結局行けなかった。
やはり費用面、また時間面(3年で去らなければいけないのに5年かかる)が残念ながら子持ちの私にはハードルが高かった。
さらに言うと、その教授のもとで勉強することも実はなかった。
それでも、その出会いは私の人生を変えたと断言できる。
・・・どういうこと?ですよね。
それは、彼がさらに繋いでくれた人たちとのご縁が、
さらにデンマークでの私の新たな世界をどんどん広げてくれたから。
あの一歩を踏み出していなかったら、
私のデンマークでの暮らしは、
もっと子供とだけ向き合った暮らしだったかもしれない。
あの時、大学ヘイって学びたいと思ったからメールを書いて、
メールを書いたから教授が私に会うチャンスをくれた。
会ってちゃんと思いを伝えたから、人を紹介してくれた。
紹介してくれた人が、また新しい出逢いをくれた。
その出会いから、初めて私はデンマークで職を得て、お給料をもらえた。
そのお仕事を通じて、いろんなところへインタビューにいけた。
デンマークでアクティブに活動する人たちとのご縁が増えた。
お仕事を通じて現地企業とのコラボイベントに携わることができた。
さまざまな人との繋がりから、いろんなお仕事の機会をいただいた。
日本語補修校で、先生として子供たちと触れ合うこともできた。
NPOを立ち上げ、国交150周年事業の一部まで担うことができた。
そう。そのあとに起こった全てのことは、
全部この教授との出逢いから生まれたこと。
あのとき吐きそうになりながらも勇気を出したから、
自分の世界が大きく大きく広がった。
「吐きそうになるくらい緊張する」
これって、自分が今いる領域から新しい領域へ足を踏み出そうとしているときに起こる「アラート」のようなものなんだと思う。
そっちはまだ行ったことのない領域だぞ。
何があるかわからないぞ。やめておけ。引き返せ!
だから、逆に言うと、この気持ち悪さを超えたその先には、
間違いなく、今までにない世界が広がっているってこと。
不安はある。
だってそもそも英語もろくにできないのに大学なんていけるのか?
自分なんかが役に立てるのか?最後までできるのか?
こいつ能無しだな、なんて思われるんじゃないか?
そんな気持ちが溢れ出てくる中でその先にいくのには、
えいやあっと、それを乗り越えていく【勢い】がきっと必要で。
その時に、
・その行動や人にご縁を感じている
・やりたいと願ったその時、行動にうつす
・流れが来たら絶対に乗ると腹をくくる
こういうマインドが自分の最後の一歩を後押ししてくれる。
私もあの時、テキサスで感じた悔しい気持ちがなかったら。
あの学部にご縁を感じていなければ。
一本のメールを送っていなければ。
教授に会ってもいいよ、と言われた時に尻込みしていたら。
絶対、今の自分とは全然違う道を歩んでいたんじゃないかなと思う、本当に私の人生のひとつの分岐点になった出来事。
メールが届いた時の喜びや、
ガーデンをあるく自分の足取りと周りの風景、
教授の部屋で飲んだコーヒーの味、
窓から見えた美しい庭。
たとえそれが実らなかったものであっても、
あの一瞬の煌めいた時間を私はきっと一生忘れないと思う。
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時はすぎて、今。
目の前にはやわらかな笑顔の女性が私に話しかけている。
「Hi, Meimu!」
"APOLO13"の映画や"THE MARTIAN"を観ては強烈にあこがれたNASAで、火星探査任務についている科学者の女性が、目の前で私の名前を呼んだ。
前夜に話したいことを原稿に書き出してみようとするも思考がパンク。とにかく緊張で心臓はバクバク、手からは冷や汗。
身に覚えのある感覚に包まれながら、私も答えた。
「I'm sooooo happy to see you!!!」
きっとこの先、またどんな形であれ、私の人生のまた違う扉がひとつ開くんだろう。
そしてその扉の先に、私はまたワクワクしながら飛び込んでいくんだろうな。
だって、いつだって吐きそうなほど不安と緊張に押しつぶされそうになった後に見た世界は、物語のように輝いていたから。
この物語の続きは、またいつか。