駐在妻の悩み ③ 駐妻同士の人間関係
駐在妻だった頃の悩み。
3つ目:近所の他の駐在妻とうまくいかなかったこと。
日本人ママのグループ
前回の記事と同じく『日本人村』に住んでいた時、私の人間関係は「同じくらいの年の子を持つママさん」で構成されていた。
アメリカ人や他国からの駐妻ママもいたが、彼女たちは生活が日本人と比べると不規則で生活リズムが合わないことも多く、交友関係の8割は日本人だった。
異国なのに、「日本人」×「子持ち」×「子供の年齢が同じくらい」という条件の下でも当てはまる人がたくさんいた。その地域は日本人が本当に多かった。
アメリカでの生活や育児の相談や愚痴、情報交換したりして、知り合った当初はとても心強かった。同じ状況の日本人同士として、親近感を抱いていた。
そして、いつしかグループのようなものができていて、自分もその中に入っていると思っていた。
自分だけが知らない「お茶会」
・この土地に住んでいる日本人はたいてい知り合い
・お互いの家、職業、年齢、車も覚えてしまっている
・駐車場も丸見えなので外出状況も把握できる
「日本人村」の状況に閉塞感を抱き始めた頃、日本人ママグループでも違和感を覚えるようになった。
一部の駐妻ママさんだけだったが、1対1だと普通に話せるのに、3人以上になると高確率で私が誘われていない「お茶会」について盛り上がるのだ。
私はそれまでずっと、お茶会やプレイデートがあったら誘ったり誘ってもらったりしていた。
自分だけが誘われていないと分かった時、自分がアメリカで築いてきた関係の脆さと、その程度の人間関係しか作れなかった自分に絶望した。
「仲が良い」「ママ友付き合いをうまくやっている」と思っていたのは自分だけだったと気づいた。
自惚れていた自分が恥ずかしくて寒気がするほどだった。
成人していて、子供もいるのに、中学生みたいに人間関係にとらわれて自分が大嫌いになった。
あがいてみた
それでも数回、めちゃくちゃポジティブに考えた。
「どうしても今話したい内輪ネタってあるよね」と耐えたり、「なんの話ですかー?私も入れてください(^^)/」みたいな感じで入っていった。さらには「お茶会」に参加したこともあった。
しかし、そこでも私以外の人だけで通じる話ばかりが続いたので、ねじ込ませてもらうのを止めた。
この時期の自分の前向きさと行動力はとんでもなく無駄だった。
逃げた
自分が変わろうが、他者は変えられない。
グループ内には夫の上司や先輩の妻もいて、これ以上自分からアプローチしても悪手にしかならないと結論づけた。近隣に(夫の)会社関連の人がいることの厄介さが身に染みた。
「これが合わないということか。この人達とは合わないし会わない」と思うことにした。
挨拶や世間話はするが、「お茶会」の話になると子供を追いかけるふりして逃げるようになった。
彼女たちの「オチャカイ」は、私にとっては「あっちへ行け」の合図になった。
その後
「オチャカイ」参加者は一部の日本人だけだったので、そのようなことをしない日本人や、日本人以外のママさんと過ごす機会が増えた。
恐らく嫌われていたのが私だけだったせいか、私以外の「オチャカイ」不参加者や外国人がいると「オチャカイ」の話にはならなかった。
居場所をくれた人たちには申し訳ないが、居場所だけでなく盾にもなってもらってしまった。
一番変わったのが、自分が他の場所で似たようなことをしていないか気をつけるようになったことだ。
やられてみないとわからないものである。
話題選びが無神経になっていないか、口を開く前に考えるようになった。
当時を振り返って
私は当時、若さを鼻にかけた生意気な新人駐妻だったのかもしれない。
今思うと「そりゃ嫌われるわ…」というようなこともやらかしていたかもしれない。
しかし、当時の自分を実際に外から見る手段は無いし、「オチャカイ」の人達の考えを知る術も無い。
もしかすると、私には非が無く、単に嫌われただけの悲運だったのかもしれない。
こうして色々考えを巡らせてみることもあるが、今更思ったところで何も変わらない。
当時は「もうちょっと穏便に追い払ってくれないだろうか」と思うこともあったが、言葉一つでいなくなるのだからかなり穏便だったのかもしれない。
「オチャカイ」参加者と、再び仲良くなりたいとはさらさら思ってはいない。彼女たちの顔や名前も記憶から薄れてきている。
しかし、自分がハブられていると自覚した時の悪寒は今でも強烈に覚えているのだ。