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ああ、あなたがくれたことばは、

ウィークデイがおわったとき、深緑色のためいきがでた。
忘年会で酔っ払いの相手をしなきゃいけなかったり、
仕事中にしょっちゅう話しかけられたり、
とかく他人の話を聞く回数が多くて、
それらの話すべてを自分のなかに溜め込んでしまったかのように、身体が重くなった。

もうしゃべりたくない。聞きたくない。これ以上、わたしのなかには入らない。
ひとりになりたい。キャパ満杯になっていることばを排出してしまいたい。


ことばって、溜まるのかしら。
週末、ひとりで高級なお茶をのみながら、かんがえていました。


ヨハネによる福音書の冒頭がすきだ。
中略しながら引用すると:

初めに言(ことば)があった。
万物は言によって成った。
言の内に命があった。


わたしはことばをだいじにしている。
ことばにはパワーがあるからだ。
自分の内に秘めている思いや考えはみえないけれど、
ことばにするとみえてしまう。かたちをもってしまう。
大げさに言えば、いのちをもつのだ、ヨハネがいうように。
だから、ことばにするときは、慎重になる。

他人が発したことばにも、わたしは敏感だとおもう。
いちど ことばというかたちになった思いや考えは、
わたしのなかにたしかにのこるからだ。
いのちをもったことばたちが生き続けるからだ、
それが善いものであっても、悪いものであっても。


ことばはのこる。
TLがながれていってもふぁぼらなくても、アタマのなかにココロのなかにセカイのなかにのこる。
わたしを あたためたり/ひやしたり/きずつけたり/いやしたりした ことばたちは、ずっとのこりつづける。
「いや、あれはうそだったんだ」といわれても、いちど発されたことばは、取り消されない、嘘にならない、
なにひとつ、なにひとつ。

ことばはのこる。それをわかっているひととわかっていないひとのことばづかいは、圧倒的にちがう。
テキトーに生きている人は、テキトーなことばを吐く。
たぶん、それが他人をあたためたりひやしたりすることを、特にかんがえていないとおもう。
知らないのだろう、ことばがのこるということを。
だから、後先考えずに発したことばが、だれかを苦しめていることも、知らないのだろう。


あのことばもそのことばもどのことばも、このことばも、のこる。
わたしはそうおもってかいている、のこしている。
だれのなかにのこらなくても、わたしのなかに、のこしている、のこっていく。

わたしがあげたことばは、生きているだろうか。
生きているといいな。


(『凛として世界』2011/12/18 記事 再掲)


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