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1万6000年前のウルム氷河期の骨が発見された洞窟 ヤジヤーガマ 縄文時代の面影

今日は、久米島で訪れた洞窟のお話です。
私はこれら洞窟も、巨人、ネフィリムの腸や食道だと思っていますよ。


戦争中は、住民や日本兵の避難壕として使われていたというのがヤジヤーガマ洞窟です。


ヤジヤーガマ遺跡
久米島では最大の鍾乳洞

ヤジャーガマ遺跡は、久米島では最大の鍾乳洞で全長 800mを測る。
開口部は3ヶ所あり、開口部から光が届く範囲には貝塚が確認できる。
遺跡は、洞窟内に展開しているため後世の攪乱が少なく、保存状態の良い遺跡である。
当遺跡からの出土遺物は、貝塚時代後期系の土器とグスク時代初期の土器や貝製品、徳之島産の類須恵器、それに炭化麦、炭化米などが多様に出土し、貝塚時代後期からグスク時代への移行期を知る上で重要な遺跡である。


こちらの洞窟では、1万6000年前のウルム氷河期の生後6ヵ月の子どもの骨が発見されているそうです。

このあたりは縄文時代や旧石器時代の骨が発見されることが非常に多いとか。

貝塚時代後期からグスク時代への移行期の様子を残す貴重な洞窟遺跡。

大きな鍾乳石も
入り口すぐのところで
見られます。

お墓として使われていたようで
たくさんの壺🏺が転がり
中には人骨が見えます。
まわりは蔓性植物が垂れ下がり
鬱蒼としたジャングル


この島では、風葬が行われていたと言います。実際に、宮古島では1970年代まで洞穴葬が行われていた記録が残っています。

死後、3〜7年は洞窟に遺体を置き、自然に骨となった後に洗骨し納骨する風習です。

古琉球では、風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後・5年後・7年後など適当な時期を見て洗骨して納骨する。琉球弧において崖(パンタ)や洞窟(ガマ)は古来、現世と後生グソーの境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられていた。後述の亀甲墓等の建て墓は主に琉球王国時代以降のものである。

Wikipedia

私も自分が亡くなった後は、火葬より、鳥葬や風葬をしたいと考えていたこともありました。また火葬するなら散骨を希望していますので、この、墓を持たない自然なスタイルには共感を覚えるのです。

亡くなってすぐ火葬をしてしまうより、自然と骨になるまで待つというスタイルは、死というものと真正面から向き合い、大切な人が亡くなったという自分の心の整理をするのにもとっても良い時間となる気がするのです。

この風葬は、縄文時代の基本であったようですが、現在は、火葬が法律で決められています。

しかし、沖縄の精神文化的には、とても風葬に対しての想いが強かったので、2000年代過ぎたまでやっていた?という話もあるようです。


私たちは、この洞窟に来た時点でゾクゾクとする悪寒がしてしまい、良くない波動の黒いオーブも見えてしまったので、入り口を少し見させていただいた後、

私は約束の通りにここに来ましたよ!
とその場でお話して帰りました。


今生きていることと、いずれかは死ぬことに関してなんだかたくさんの大切なメッセージを受け取れた貴重な場所でした。
いろんなオーブやコウモリも飛んでます⬇️

こちらで頂きました。
いつもありがとうございます😊

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