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“私”がすべてなのか 〜自由意志について〜


 自分は、常に“私”を感じて生きている。黙っている時も“私”は自分に語りかけている。独りぼっちの時も“私”は自分と共にいる。“私”とは何か。そして、“自分”とは何か。

 自分の中に“私”が占めている割合は100%。そして、その“私”が、自分の脳の中心に位置し、外界を感じ取り、思考し、判断を下し、体を動かしている。何の疑いもなくそう感じる。

 この自分が“私”と感じ取っているのが、“自己意識”と呼ばれるもの。生まれてから、この自己意識こそが自分の全てであることを、いっさい疑わずに生きてきた。

 しかし、ベンジャミン・リベットが行ったヒトが意識をして手首を曲げる実験から、行為をしようという“意識的な意志”が現れるおよそ0.3秒前に、脳に自発的な行為に繋がる“準備電位”が発生していることが明らかとなった。

 これはすなわち、“私”が行動の開始を意識する以前に、すでに脳内で行動の準備が無意識的に始まっていたことを意味している。

 リベットは、この結果に関して、『もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではない』とはっきりと述べている。

 なお、リベットは、行為をしようという“意識的な意志”が生じた後、自発的な行為が起こるまでの0.15秒間の内、運動神経の伝達に関わる0.05秒を差し引いた0.1秒間に、意識的に行動を中断することができることも実証している。

 リベットは、この“意識的な拒否”の可能性を示すことによって、自由意志が行為の結果をコントロールし得ることを示唆し、ヒトの自由意志の存在を擁護したと言える。

 ただ、この“意識的な拒否”については、“意識的な意志”と同様に“準備電位”が存在し、やはり無意識的に脳が決定しているのではないか、という疑問が残る。

 これに関して、リベットは、十分な根拠は示さず、『“意識的な拒否”は、おそらく先行する無意識のプロセス を必要とせず、またその直接的な結果でもない』と提案している。

 こうしたリベットの主観的見解は、『人間は“意識的な意志”ではなく“意識的な拒否”として自由を持つという、このような意見は、 おそらく人間の原罪について生理学的な根拠になる』という彼の言葉が示すように、彼自身の道徳的信念に基づいたものであろうと推察される。

 “意識的な拒否”を自由意志と呼ぶかどうかはさておき、リベットの実験から明らかになったことは、ヒトには、自発的な行為を引き起こすような“自由意志”は存在しないということである。

 この事実をどう受け止めるかは、ヒトそれぞれである。素直に受け入れられる者は少数かもしれない。落胆する者もいるだろうし、頑として認めようとしない者もいるだろう。

 「自由意志は幻想だという情報を与えられた被験者は、モラルに反する動向を示し易くなる」という心理学実験がよく取りあげられるが、そのような退廃的心情に陥る者もいるかもしれない。

 ここで、我々が注視しなくてはならないのは、“私”の自由意志以外の何者が、“自分”の自発的な行為を引き起こしたのかということだ。

 それを考える前に、ベンジャミン・リベットが、意識をして手首を曲げる実験の発想を得た、“意識的な気づき(アウェアネス)”を測定する実験に注目してみよう。そこには、大きな二つの発見があった。

 一つは、脳の一次体性感覚皮質の表面に電気刺激を与える実験で、“アウェアネス”が生まれるには、反復的な感覚刺激を約0.5秒間継続する必要があるという発見である。

 これは、ヒトは感覚的に常に0.5秒前の過去を認識(意識)している、ということを示している。この事実はまことに信じがたいことではあるが、これは紛れもない真実である。

 二つ目は、脳の一次体性感覚皮質刺激と直接の
皮膚刺激を組み合わせた実験で、感覚皮質への電気刺激開始後、皮膚に電気刺激を0.5秒以内に与えると感覚皮質より皮膚の“アウェアネス”の方を先に感じ、ちょうど0.5秒後に与えると感覚皮質と皮膚の“アウェアネス”を同時に感じるという発見である。

 これは、皮膚刺激の“アウェアネス”は、事実上脳が適切な状態になるのに必要な0.5秒間遅延するけれども、主観的にはまるで遅延がなかったかのように0.5秒間遡及して経験するということを意味する。

 ここで注目すべき点は、脳がその0.5秒の遅延をヒトに感じさせないように何らかの操作をしているという事実である。操作というのは、端的に言うなら“錯覚”させているということである。

 はっきり言えることは、“私”は、錯覚させられている対象であるということである。錯覚させられている(騙されている)対象が、ヒトの本質であるはずがない。

 本質は、当然コントロールしている(騙している)側にあると考えるべきである。それは、意識にのぼらない脳の活動、すなわち、“無意識”である。

 先ほどの、“私”の自由意志以外の何者が、“自分”の自発的な行為を引き起こしたのか、という質問の答えは明白である。それは、「無意識の脳の活動」と言える

 ヒトの呼吸、心拍、消化、体温等は、脳幹の働きによって無意識に制御されている。ヒトの生命維持に関わるすべての活動は、“無意識”が担っているのは周知のことである。

 さらに、ヒトの体を作る37兆個の細胞一つひとつが行う生命活動に、ヒトの意識は直接介在していない。ヒトの存在の根底を支えているのは、脳の“無意識”の活動に他ならないのだ。

 そして、リベットの実験によって、ヒトの自発的行動さえ、自由意志によらず無意識によって引き起こされていることが実証された。

 “私”とは何か。そして、“自分”とは何か。この問いを考える際、ヒトは、“私”が“私”であることへの執着を捨てる必要があるように感じる。

 そして、“自分”というものを、“私”という脳の意識的な部分だけでなく、脳の無意識的な部分、さらには脳だけではなく、自分を構成する全細胞のトータル的実在として捉えなければならないと考える。

 これは自分の直感であるが、人生が過ぎ去るごとに強まる信念である。“私”は“私”ではあるが、“自分”のすべてではない。“私”は“自分”の一部分(一機能)に過ぎないのだ。

 この主張は、自分の存在の根幹をなすものであるが、長くなるのでいずれ改めて論じたいと思う。

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