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みんな気づいていないこと 〜感覚的クオリアについて〜


 この事を、おそらく地球上の大半のヒトが、知らないまま平和に暮らしている。知らないままでもいいのかもしれないし、知ったって「ふーん、それが…」という程度のことなのかもしれない。

 けれども、自分にとっては、それを知ったことが世界観が根底から揺らぐほど衝撃的で、それを知らずに生きていた自分が、囲いの中に閉じ込められた囚人であったかのように感じた。そんな事を書き記したいと思う。


「ホムンクルス」はいない

 お花畑の前に立てば、花弁の赤色や黄色、紫色の鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。深く息を吸い込めば、鼻腔内にかぐわしい甘い香りが広がる。これは、日常ごく当たり前の現実である。

 ヒトの視覚は、光が角膜から入りレンズで屈折されて網膜上に像を結び、その感覚情報が脳に伝達される。また、嗅覚は、鼻孔から入った臭いの分子が鼻の粘膜につき、その感覚情報が脳に伝達される。

 ヒトはそういった感覚について、網膜のスクリーン上に映った映像がそのまま脳内に投影され、また、鼻から吸い込んだ香りがそのまま脳まで運ばれて、それを意識の中の自分が見て嗅いで感じている、そんなイメージを持つ。

 けれども、もしそうならば、脳内で映像を見て、香りを嗅ぐ小人(ホムンクルス)を想定しなくてはならない。そしてさらに、その小人の脳内にも別の小人が必要となり、これが際限なく続くことになる。

 つまり、このような心身二元論的解釈では、「無限後退」に陥ってしまう。よって、ヒトの脳の中には、感覚情報を体験している小人(ホムンクルス)は存在しない。

 では、脳の中に映像や香りが存在せず、感覚情報を体験する小人もいないのであれば、いったい何者が、何を見て、何を嗅いで、花畑の前でほくそ笑んでいるのであろうか。


そこに「色」は存在しない。

 光の正体は、“電磁波”である。電磁波は、「波動性」と「粒子性」を併せ持つ。ヒトは、その波長の短い側を青色、長い側を赤色と認識する。

 また、電磁波の粒子である光子(フォトン)がその波長で持つエネルギー量と、単位時間、単位面積当たりを通過する光子の数によって、明るさを認識する。

 ヒトが光の色や明るさを感じる流れを、具体的に追ってみよう。まず、太陽光などの光源の光が物体に当たり、吸収されずに反射した波長の光(電磁波)が網膜に到達する。

 次に、網膜にある1億個を超える視細胞の内、明るい場所では長・中・短の各波長に対応したL,M,S錐体細胞が、また、暗い場所では桿体細胞が、電磁波の刺激を受容し電気信号を生み出す。

 その電気信号は、視神経を通って大脳に送られ、主に後頭葉の視覚野で処理をされ、最終的に意識の内に、色・明るさを伴った光の主観的体験(クオリア)が立ち現れる。

 ここで確認すべきことは、網膜から視神経を通って大脳に伝わったものは“電気信号”であり、決して、光の正体である“電磁波”そのものが伝わったのではないということである。

 つまり、光の色や明るさは、感覚情報である “電気信号”を基に、脳が“クオリア”として生み出したものであり、外界の光の正体である電磁波そのものに、色や明るさはないのである。

《 なぜリンゴは赤で、空は青なのか? 》

 ヒトの脳は、電磁波の波長に“色” のクオリアを対応させた。ではなぜ、リンゴが赤色のクオリアを、空が青色のクオリアをそれぞれ感じさせるのか。

 その前に、ヒトのクオリアはみな同じなのか、という疑問が浮かび上がってくる。クオリアが神経細胞の活動によって生み出されると仮定するなら、遺伝学的に考えて、ヒトはみな同様のクオリアを経験していると推察される。

 しかしながら、それを証明することはできない。なぜなら、クオリアは、ヒトが意識の上で、主観的に経験する質感であって、自分以外のヒトがそれを経験することが不可能なものだからである。

 ヒト以外の他の動物はどうだろう。もし、犬や鳥も意識やクオリアを持つと仮定するなら、目や脳の作り、進化の道筋から考えて、おそらくヒトと類似のクオリアを体感しているだろう。

 しかし、犬はヒトにある緑色を感知する錐体細胞を持たないし、逆に鳥はヒトにない紫外線を感知する錐体細胞も持っている。

 これは、脳に電気信号として伝わる視覚情報の差異を示していると考えられる。ならば、それぞれ動物のクオリアには当然違いが生じるであろう。

 クオリアの正体やそれが生まれるメカニズムは、現在の科学の力では解明されてはいない。その状況で、リンゴが「赤」で空が「青」である理由を議論するのは極めて困難なことである。

 唯一推論できることは、もし生物の進化が真実なら、ヒトが持つ他の機能と同様に、色のクオリアもまた、淘汰圧を受けながら、生存・繁殖に有利であるように、環境に適応していったであろう、ということである。


そこに「音」は存在しない。

 音の正体は、空気など媒体の“振動(音波)” である。ヒトは、その周波数によって音の高さを、振幅(音圧)によって音の大きさを、また、波形によって音色を、それぞれ認識している。

 ヒトが音を感じる流れは、まず、物体が振動することで音の媒体(空気等)が振動し、その音波が耳殻、外耳道を通って鼓膜に到達する。

 音波は鼓膜を振動させ、その振動がさらに中耳にある耳小骨、そして、内耳にあるうずまき管内のリンパ液に順次伝わり、増幅されていく。

 うずまき管内では、およそ2万個の有毛細胞(聴細胞)がリンパ液の振動の刺激を受容して電気信号を生み出す。

 その電気信号は、聴神経を通って大脳に送られ、主に側頭葉の聴覚野で処理をされ、最終的に意識内に、高さ・大きさ・音色を伴った音の主観的体験(クオリア)が立ち現れる。

 ここで確認すべき点は、聴覚細胞から聴神経を通って大脳に伝わったものは“電気信号” であり、決して、音の正体である“音波”そのものが伝わったのではないということである。

 つまり、音の高さや大きさ、音色は、感覚情報である“電気信号”を基に、脳が“クオリア”として生み出したものであり、外界の音の正体である音波そのものに、音の高さや大きさ、音色というものがあるのではない。

《 相手の声はどこから聞こえてくる? 》

 ところで、不思議なことに、会話する相手の声は相手の口から聞こえてくる。決して、空気の振動が届いた鼓膜の場所で聞こえることはない。

 これは、脳が、まるで相手の口という場所から音が発せられているかのように、意識を錯覚させているからである。

 両耳に届く音波のわずかな時間のズレや、ある方向から音波が耳殻にぶつかった時の波形の変化、さらに視覚情報から、脳は巧妙に音源の位置を計測している。

 ヒトの脳は、そういった様々な情報を加味した上で、感覚器官からの電気信号を基に神経細胞の働きにより、精巧な幻覚としての“クオリア”を作り上げているのである。


そこに「臭い」は存在しない。

 臭いの正体は、“化学物質” である。ヒトは、化学物質の刺激を受容した嗅覚受容体の組み合わせにより臭いの風味を、受容した嗅覚受容体の数により臭いの強さを認識している。

 ヒトが臭いを感じる流れを詳しく見てみよう。まず、化学物質が気化し気体分子となる。それが鼻孔から鼻腔内に吸い込まれ、鼻腔天井部の嗅粘膜に溶け込む。

 次に、一種類の化学物質に対して、嗅粘膜の嗅細胞に一つずつある約400種類の嗅覚受容体のうち数種類がその刺激を受容し、嗅細胞に電気信号が発生する。

 その電気信号が嗅神経を通って大脳に送られ、主に前頭葉にある嗅覚野で処理され、最終的に意識内に、風味・強さを伴った臭いの主観的体験(クオリア)が立ち現れる。

 確認すべき点は、まず、嗅細胞から嗅神経を通って大脳に伝わったものは“電気信号” であり、決して、臭いの正体である“化学物質” そのものが伝わったのではないということだ。

 つまり臭いは、感覚情報である“電気信号”を基に、脳が“クオリア”として生み出したものであり、外界の臭いの正体である化学物質そのものに、臭いの風味や強さがあるわけではないのである。

《 最も原始的な感覚 》

 「“嗅覚”は、最も原始的な感覚」と言われる。夜行性の野生動物は、視覚よりも聴覚や嗅覚を頼りにして活動している。特に嗅覚は、生命維持や生殖に関わる活動に欠かすことはできない。

 動物は、臭いで餌を探し出し、臭いを嗅いで食べられる物か食べられない物かを判断する。また、風の臭いで天敵の存在を感知し、わずかなフェロモンの臭いで交配する相手を探しだす。

 前述の通り、臭いの正体である化学物質自体に、臭いが存在しているのではない。臭いは、脳が作り出したクオリアに過ぎない。

 ヒトのクオリアもまた、野生動物と同様に、個体の生存や繁殖のために、“進化”の中でヒトに備わった機能の一つであると考えられる。


そこに「味」は存在しない。

 味の正体もまた、“化学物質” である。ヒトは、化学物質の刺激を受容した嗅覚受容体の種類の組み合わせで味の風味を、その数で味の強さを認識している。

 ヒトが味を感じる道筋は、まず、食品に含まれる化学物質が、液体分子やイオンの状態で、舌の味蕾に数十個ずつある味細胞に到達する。

 次に、味細胞にある味覚受容体が、化学物質の甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の各刺激を特異的に受容し、電気信号を発生する。

 その電気信号が味神経を通って大脳に送られ、主に島皮質にある味覚野で処理され、最終的に意識内に、風味・強さを伴った味の主観的体験(クオリア)が立ち現れる。

 同様に確認すべき点は、味細胞から味神経を通って大脳に伝わったものは“電気信号” であり、決して、味の正体である“化学物質” そのものが伝わったのではないということである。

 すなわち、味は、感覚情報である“電気信号”を基に、脳が“クオリア”として生み出したものであり、外界の味の正体である化学物質そのものに、味の風味や強さがあるわけではない

《 なぜチョコレートとステーキを好むのか? 》

 一度チョコレートやステーキを食べたヒトは、その味を忘れられず、再度食べたいと願う。チョコレートの豊潤な甘味、ステーキの脂身から滲み出るこの上もない旨味。それはヒトを虜にする。

 甘味、脂身は、なぜ、ヒトに至高の味のクオリアを生み出すのだろうか。その前に、チョコやステーキには味などなく、脳が味のクオリアを作り出していることを確認しておく必要があるだろう。

 その上で、甘味(糖質)、脂身(脂質)が重要なエネルギー源であり、生命維持に欠かせない化学物質であることを考えれば、その味のクオリアがヒトの動機付けとなることは自ずと推察できる。

 野生の動物にとって、良質の糖質、脂質に出会える確率は決して高くはない。だから、採餌行動に志向させるクオリアが必要なのである。ヒトは、まんまと味のクオリアに操られているのだ。

 ただ、食料豊富な現代人にとっては、この味のクオリアの性で、肥満や糖尿病、心筋梗塞などの成人病に罹りやすい状況が生まれているのは、皮肉なことである。


そこに「痛み」は存在しない。

 痛みの正体は、“侵害刺激(圧力・熱・化学物質)”である。ヒトは、それらの刺激を感覚神経末端の侵害受容器で受容することで、痛みを感じ取っている。

 侵害受容器が刺激を受けると電気信号が発生し、感覚神経と脊髄を経て大脳に送られる。そして、一次体性感覚野で処理され、最終的に意識内に痛みの主観的体験(クオリア)が立ち現れる。

 やはり確認すべきことは、侵害受容器から味神経を通って大脳に伝わったものは“電気信号” であり、決して、痛みの正体である“侵害刺激(圧力・熱・化学物質)”そのものが伝わったのではないということである。

 つまり痛みは、感覚情報である“電気信号”を基に、脳が“クオリア”として生み出したものであり、痛みの正体である侵害刺激を受けた部位に、痛みが存在するのではないということである。

《 存在しない足に痛みを感じるのはなぜ? 》

 「幻肢痛」という症状がある。病気や事故で手足を失ったヒトが、無いはずの手足の場所に痛みを感じるというものだ。

 なぜ、足のないヒトが、存在しない足があるように感じ、そこに痛みを覚えるのだろう?

 腕のある人が腕をつねったら、紛れもなく、つねった場所に痛みを感じる。しかし、“痛み”はそこには存在しない。その部位に存在するのは、侵害受容器に発生した電気信号だけである。

 その電気信号が伝わる一次体性感覚野の場所によって、脳が、まるで侵害刺激を受けた部位が痛むような幻覚としての“クオリア”を生み出すのである。

 だから、手足がなくても、対応する脳の一次体性感覚野が存在しそこが刺激されれば、存在しない手足の感覚や痛みを生じさせることができるのだ。

 このことは、大脳の一次体性感覚野を直接刺激すれば対応する体の部位に触覚を感じることや、麻酔によって神経細胞を麻痺させれば痛みを感じなくなることを考えれば理解できることである。


物体のみが存在する世界

 色とりどりの風景、耳に届く小鳥のさえずり、食卓に並ぶ料理の香りと味わい、ケガをした時のズキズキとした傷の痛み、それらは意識の中で明確に経験され、その存在を疑う者はいないだろう。

 しかし、それぞれの感覚器官から脳に伝達される情報は、どれもまったく同じ神経細胞の発火による電気信号(インパルス)なのである。

 それが脳内の別々の領域に伝わることによって、ヒトは、“色”、“音”、“臭い”、“味” 、“痛み”等のまったく違う“クオリア”を経験するのである。

 これは信じ難いことであるが、繰り返し述べている通り、ヒトを取り巻く外界には、“色”、 “音”、“臭い”、“味” 、“痛み”のどれも存在しない。

 “色”と“音”が全く無い世界というものをイメージできるだろうか。それは、他の惑星に不時着したような無味乾燥な世界なのか、はたまた、目を閉じ耳を塞いだ時のような静寂と闇の世界なのだろうか。

 いや、イメージするということ自体が意味をなさない。なぜなら、“イメージ”とは、ヒトの脳が生み出す“クオリア”を基にしてしか表現できないものだからである。

 もし、この外界を表現するならば、『原子と分子によってできた“物体”だけが存在する世界』だろう。それ以外には何も存在しない。想像し難いが、それがヒトが生きる世界の真実であり、偽りのない現実なのである。

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