特別なスキルも専門性もないし…
わたしは、noteでよく転職活動の記事を読む。五十代、六十代で転職活動されている方もいて、安心したり不安になったりもする。人生は生きている限りは続くから収入の確保はもちろんのこと、身の置き所が必要なのだなと思わされる。
よく見かけるフレーズに「特別なスキルも専門性もないから、転職活動で苦戦するのはいたしかたがない」といったものがある。これまで当たり前のことのように読み飛ばしていたのだが、どなたもある程度は勤務経験があり、社歴がある。
なのに、スキルがない。会社で何の業務に時間を費やしていたのだろう。(と、わざわざ推量文で書くのも、なんだかいやらしい。本当はわかっている。)社内ルールに基づいた雑務及び調整をやっていたり、誰かの補助的な役割を担わされていたケースなどが考えられる。組織が大きくなれば、部署の部分的な仕事をやることもあるので、スキルとか能力とかそういう次元ではない仕事もある。でも、社内の誰かが対応しなければならない。スキルを積めない、場当たり的な職場もあるし、スキルを積ませてもらえなかった属性の人たちもいる。メンバーシップ型雇用されているようで、メンバーとは認められておらず、教育投資される対象になっていないことだってある。そもそも日本の人材に対する教育投資(能力開発)の費用は低い。
特別なスキルや専門性は、士業のような資格を指している場合もあるが、国民全員が士業をやりはじめたら、産業社会は回らなくなる。となると、特別なスキルや専門性がないと自覚している人に転職するメリットはなく、社内にとどまった方がいいと判断するわけで、当然雇用の流動性も低くなる。しかし、ひょんなことから、あるいは好むと好まざるとに関わらず、会社を出ざるを得なくなるときがある。そこからの転職活動が大変だという話なのだが、これって、やはり個人の責任ではないと思う。
新自由主義的努力信仰信者の方には信じられないと思うが、社会の仕組みで、そういった境遇や状況に追い込まれることってあるんですよ!
そのような社会の構造がおかしい! とわたしが思っても、偉い学者先生が統計的に証明したところで、個人の転職活動は少しも楽にならないという現実がある。時間的な制約などもあるので、それぞれが持っているカードで、そのときどきの勝負をしていくしかない。(悲しい結論)
わたしが転職活動をしたときに実感したのは自分を求職市場の網にひっかけておくことの重要性である。複数の転職サイトやエージェントに登録して、公的機関のハローワーク、厚労省や自治体関連の就業斡旋機関にコンタクトを取ったりしておくと、どこからか声がかかることもある。社会の中には、個人が認知できないような無数の人と組織が存在している。その人たちに見つけてもらえるように、細くて脆い網を自分なりに作っておく。求職中は、求職の情報源はいくつあってもいいぐらいだ。無職だと心も荒むので、わけのわからぬオファーやスカウトで気を紛らわすこともできる。
AI次第ではガラガラポンもあり得るので、かりそめの世を適当に生きていけばいいと思う。(ひどい結論)