続・twitterをやめる
昨日、twitterをやめるという記事を書いたところ、「スキ」が普段より、ハイペースでついた。
記事のできがよかったわけではない。「みんな、twitterをやめたいんだなあ」と思った。
面白いニュースが次から次へと流れてくる。それだけでなく、自分が発信者となれば、それに対する反応もある。本当によくできた仕組みだと思う。海外在住の人や海外の新聞社などをフォローしていたら、それこそ一日中、ピークタイムが続くので、キリがない。
そして、twitterには「感情」があふれている。それも、日常生活では抑制しているものを晒している人が多い。ストレス発散のため、共感してもらうため、あえてやっている人も多い。「怒り」や「悲しみ」だけでなく、「嘲笑」「揶揄」などは本当に多い。
そのうえ、本人たちは議論しているつもりなのかもしれないが、議論になっていないケースが大半だ。論陣の対立が激化していくだけなのだ。その原因は、何も知らない人が専門家の専門を批判する、というような現実ではできないことができてしまう、というある種のミラクルによるものだ。もちろん、専門家が自らの専門とは関係ないことを滔々と述べてしまう、といった頓珍漢なことも起きている。
民俗学的な価値は確かにあると思う。後世の誰かが研究をしてくれるかもしれない。
ただ、隙間時間にスナック感覚で摂取するのは、刺激が強すぎる上に、カロリーが高すぎる。休憩時間は、ちゃんと休憩したほうがいい。(twitterは、ハバネロステーキだ)
twitterのタイムラインに張り付き、トレンドを追いかけることは、ギャングがドンパチやっている繁華街に丸腰で行くようなものだ。流れ弾に当たることだってある。無傷では帰れないときもある。
タイムラインに表示される暴力や虐待、自死、自傷行為、ポルノ、セクハラ、パワハラは、はじめて知ることなのだろうか。いや、twitterで見る以前から知っていたことだ。勉強が必要だと思ったのなら、やはり専門書なり新書なりで、ある程度、体系だった情報を頭に入れたほうがよい。本を読むのだ。
個々人の断片的な情報、生きている証に触れることは、興味深い経験でもある。しかし、そこには代償もある。気持ちがざわつくのだ。
心の安寧を優先して生きることは退屈かもしれない。でも、インターネットからダメージを受けるなんて馬鹿馬鹿しい。オフラインで生きている人のほうが圧倒的に多い。
ただ、「炎上を知りたい!」という気持ちは少し残っている。これが野次馬根性なのだろう。小さな炎上には気づけないだろうけれど、大火事や山火事の情報はきっと耳に入ってくるはず。
twitterに後ろ髪引かれる気持ちも、なくはないのだが、ひとまず距離を置こうと思う。