映画『ゲッベルスと私』(2016)の感想
映画『ゲッベルスと私』を2018年の夏、岩波ホールで観てきた。
AmazonのPrime Videoでも見られるようなので、ぜひ未見の方には鑑賞をすすめたい。
映画は、ゲッベルスの秘書だったブルンヒルデ・ポムゼルという女性にインタビューする形で進んでいく。全編モノクロ映画である。彼女のインタビューシーンと記録映像で構成されている。
彼女は終始一貫して、「ホロコーストはドイツ人全体の罪であって私個人は何も悪くなかった」と主張する。また、あの時代、あのときのナチスを生んだドイツは狂気じみていて頭がおかしかっただけで、今のドイツ人とは関係がないのだというニュアンスの話し方をする。
ハンナ・アーレントが、アイヒマンを「凡庸な悪」と評したように、我々はすぐに思考停止に陥る。仕事だと言われれば、殺人すらやってのける。ポムゼルという女性も「仕事だったから」と言い続ける。
自分を律することができるのは自分しかいない。あらゆる場面で、自分はどうありたいのかを考えておかなければならないし、いざというときのために、逃げる方法も考えておかなければならない、とつくづく思う。
「上が決めたことだから」と他人に説明した経験は私にもある。それは正しくないことだったが、組織に居残り続けるためには正しいことだった。もう少しよい方便はなかったものかといまだに悔やまれることもある。
ユダヤ人といっしょにガス室に送られた障害を持った人々もいる。これに異を唱えたのは、ドイツ国内においてはカトリックの人たちだったと話を聞いたことがある。その理由は至極単純で、生命はみな尊いのだから奪ってはならない、と述べたそうである。記憶があいまいで出典が思い出せないまま書いていて申し訳ないのだが、私はこの事実に、安堵感を覚えた。
仕事だとしても、やってはいけないことはある。人道主義に反していないか。そういった基準をいつでも思い出し、立ち返ることができなければ、昨今流行りの優勢思想に容易に負けてしまう。私は強者になっても、弱者になっても、生命は尊いのだという立場をとれるよう、もっと、勉強しなければならないし、はっきり言葉にできる人間でありたいと思う。