「人間関係をがんばれ」と言われても…
ここ最近、ランダムに接したいくつかのメディアで著名人が、SNSに逃げ込まず、フィクションの世界に逃避せず、現実の人間関係をがんばりなさい、と言っていた。
言っていることは完璧に理解できる。自分の殻に閉じこもるのではなく、他者と向き合い、友人や仲間を作る。恋人をつくり、家族も大事にしろ、という普遍的な教え、説教にはうなずくしかない。そりゃそうだよね、と思う。
彼らが言っていることがわかるのに、こんなにも響かないのはなぜなのか。人間関係をつくり維持するにはそれなりの努力と時間が必要。報われないこともある。いや、報われるとか報われないとか、そういう次元で考えるものではない。人間は社会的な生き物で人間関係の中でしか生きられないのだから、そこに時間もお金も投資するのが当たり前。これまでも、これからも、ずっとそうなのだ。
ただ、その関係性が健全で健康的なものでなくなればリスクにもなる。わたしは自分が犯罪に巻き込まれることはないなんて一切思っていない。油断したら巻き込まれると思っている。それぐらい用心深い。そういう人間だから、友達もいないのだろう。
それに、いまわのきわに「もっと友人をつくればよかった。家族を大事にすればよかった。家族を作ればよかった」と後悔をするとはあまり思えないのだ。死ぬことがわかって病床にいるのなら、そのことに安堵しているに違いない。独身で人間関係にあがいてもいないので、常に店じまいをしているような気分で暮らしている、というのもある。
逆に「人間関係をがんばれ」と叱咤激励する人の心理とは、どのようなものなのだろうか。人間関係をあきらめている、あるいは真剣に取り組んでいない人を鼓舞する必要はどこにあるのか。無気力な人間がめざわりなのか。治安が悪くなるのを案じているのか。過去の自分を悔やんでいるのか、現在の人間関係に不安を感じているのか。人間は自分がどうでもいいと思っていることを公的な場で不特定多数の人にわざわざ伝えることはしない。彼らは普遍性を叫べば下々の人間が従うとでも思っているのか。リアルが充実しているのなら、それを自分で楽しめばいい。他人に見せつける必要はないし、説教しなくてもいいではないか。せざるを得ない切迫感でもあるのか。
ただ、世の中はどんどん一人でいられるようになっている。数年経てば、AIのアシスタントと自然と会話をかわすようになっているだろう。人間関係をがんばらなくても困らない時代になりつつある。もちろん、人間関係でしか得られない充実はある。しかし、わたしも、あなたも、誰かを充実させるための道具として存在しているわけではない。ひとりぼっちの人間が孤独に震えて、くさくさしているなんてのも妄想にすぎない。残念ながら、そこそこ楽しく生きられてしまう。だから、人間関係をがんばれないのだろう。がんばる気力もない。
なんでこんなに疲れちゃっているのだろう。