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改姓によるリセット願望

選択的夫婦別姓制度の法案がなかなか通らない。反対派には保守的な人々、家制度や家父長制を維持したい人々、ロマンチックイデオロギーに支配されている人々、新興宗教の人々などがいるので、彼らも一枚岩ではないのだと思う。そもそも結婚制度自体が必要なのかどうか。制度設計はすべて個人単位にしてもらったほうが、離婚や死別のとき、ピンチに陥ることもなくなると思うのだけれど。

正直、この制度が通っても通らなくてもいい。結婚する予定もないし、家父長制を解体派なので、家とか戸籍とか全部いらない(我ながら過激派)。夫婦別姓制度の国もたくさんあるが、それは男女平等なのではなく、女が外から来た人間であることを示すための仕組みだったのだから、それを称えるのも超微妙。女は家制度のインサイダーにはなれず、家と家をつなぐ道具的なアウトサイダーにすぎなかった。夫婦別姓も夫婦同姓も、何も解決しない。わたしの家族はみんな同じ名字だが仲も悪いし、ほぼほぼ一家離散状態だし、一体感なんてゼロ。おそらく名字が違っていても仲は悪かっただろう。問題は名字ではなく、性格や道徳。まあ、遺産相続とかがある人にとっては、家族は大事なのだろう。

ただ、振り返れば、子どもの頃は、結婚して名字が変わることに漠然とした憧れを抱いていた。それは変身願望にも似ている。結婚による改姓はリセット願望を叶えるものだと指摘したのは小倉千加子だっただろうか(間違っていたらすみません)。父親から解放されて、夫の氏を名乗る。それは甘美な経験でもある。実際的には、銀行口座やらクレジットカードやらの名義変更をするのだからしち面倒くさい。離婚後も、旧姓に戻さず、夫の姓のままの人もいる。おそらく、しち面倒くさい手続きがしたくないのだろう。

選択的夫婦別姓制度の法案が通過した暁には、結婚する際、別姓を選ぶか、同姓を選ぶかでひと悶着が起こるだろう。一種のモラハラリトマス試験紙にもなるはず。次は子どもが生まれたときにどちらの名字にするのか、またひと悶着あるだろう。とある選択的夫婦別姓の国は、産褥期の妻が動けないのをいいことに夫が役所に勝手に子どもの姓名の届けを出して問題になっているのだという。恐ろしいね、まったく。油断も隙もありゃしない。

実はここからが本題。思想信条の前置きが長くなってしまった。日本人の名字には稀少性の高い名字とそうでない名字がある。正直、田中が鈴木になろうが、佐藤が田中になろうが、どうでもよいではないか。

めずらしい名字、たとえば分倍河原五郎みたいな京王線チックで名前まで入っているような名字があったとしよう。分倍河原五郎幸子という女性が、田中太郎という男性と結婚して、田中幸子を名乗るべきなのか。わたしは太郎が分倍河原五郎太郎になるべきだと思う。絶滅危惧名字を守らねばなるまい。しかし、分倍河原五郎幸子は自分のキラキラ名字にうんざりしており、あっさり田中を選んでしまうかもしれない。そうなると、分倍河原五郎という姓はこの世から消失する。名字の多様性は失われ、この世は佐藤、田中、鈴木であふれる。これは由々しき問題ではないか。

わたしが言いたかったのは、核家族化が進み、家制度も機能しなくなりつつある現代においては、面白くてめずらしい名字のときほど、悩むだろうし、もめるのではないか、ということだ。五月雨加奈子と最上川健司が結婚することになったらどうするんだろう。夫婦別姓? 夫婦同姓? そういうくだらないことを考えて、日々を生きている。結構、楽しい。

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佐藤芽衣
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