誰もが知っている有名人がいなくなる日、サブカルがなくなる日
著名人が亡くなると、マスメディアによって大きく報じられる。おそらく、「多くの人々に知られている人である」と報道する側に認識されている人物が「有名人」と呼ばれる人々なのだろう。
ここ最近、ネットニュースでは、SNSのインフルエンサーの訃報も目にするようになってきた。全ジャンルに精通している人はいないので、訃報ではじめてその存在を知ることも増えているのではないだろうか。
昨今、マスメディア、いわゆるオールドメディアと呼ばれているテレビや新聞、雑誌のパワーは落ちている。誰もが自分好みのメディアの中をぐるぐるしている。当然、情報は偏る。
「あのドラマは面白い!」と言われても配信元はバラバラ。Netflix、Disney+、Apple TV、HBO Max、Amazon Prime、U-NEXTとどれも有料。全部入れる人は入っているのだろうけれど、果たして見る時間はあるのだろうか。スポーツの場合、DAZNが放映権を独占していたりする。偶然、テレビで見かけて好きになるなんてことはなくなる。
これからは、数百人、数千人といった村や町の規模で知られているような有名人がたくさん生まれるのだと思う。1億人の誰もが知っている人は、そうそう出てこないだろう。悪名は無名に勝るので、社会を揺るがすような犯罪者だけが大衆の記憶に残っていくのかもしれない。
マスが解体され、メインカルチャーがなくなれば、サブカルチャーというより、有象無象のカルチャーが乱立する。交わらない並行世界。つながれるのに、つながらない。
表通りの大衆文化がなくなれば、裏道、小路の無数の文化が点在するようになる。大きな文化が失われれば、サブカルはサブではなく、ただのカルチャーになる。そちらのほうが健全なのだろうか。
政治学者の丸山真男は、日本の文化や政治を「タコツボ化」と表現していたが、それがさらに加速していくのだろう。それは分断ですらなく相互不干渉のなれの果てで、その先にあるのが閉鎖的な村社会なのだとしたら、ぞっとする。和やかなグループの中で伸び伸びとやれるのか、殺伐とした内ゲバが頻発するのか。わたしはおそらく後者ではないかと思う笑。