まんじゅう派と団子派への配慮について
ここ最近、社会や会社の制度における配慮や手当に関する議論に難しさを感じている。彼らは特別(例外)で彼らは不足しているのだから手当はされて然るべきだというロジックを展開されると納得する反面、あなたは特別ではなくて充足していると判断された側が納得できるのだろうか、と考えてしまう。
実例を出すと、全方位に角が立つので、おやつにまんじゅうを食べる人と団子を食べる人の架空の対立で考えてみたい。
あるとき、まんじゅうの皮はパサつくから、まんじゅうを食べるときは、必ず緑茶を出すべきだ。まんじゅうと緑茶はセットにしろ、という主張がまんじゅう派から出され、それが採用される。まんじゅう派は緑茶という手当をゲットする。
それを知った団子派は不満を覚える。「まんじゅうの皮のようなパサつきはないけれど、団子を食べると、みたらしのタレやあんこで口の中が甘ったるくなるから、こっちだって緑茶がほしいよ」と。
そうなると、団子派の不満はどんどん溜まっていく。自分たちは緑茶サービスが享受できない。まんじゅう派はサービスを無償で受けられるのに、団子派は自腹。まんじゅう派の緑茶手当は不当な優遇ではないか。
この問題の解決策は、まんじゅう派から緑茶手当をなくすのではなく、やはり団子派にも緑茶を支給するしかないと思う。
無駄ないさかいをなくすためには、サポートを受けられる人を拡充していくしかない。人間は嫉妬深くもあるので、自分だけが損をしているような状態は耐えられない。みんなもらえたら、多少の不満があっても堪えられる。(もしかしたら、これって、狩猟採集民時代の再分配ルールの名残りなのかもしれない)
まず、個人単位の手当や支援があり、そのうえで家族に対する手当があるような社会の方が段々望ましくなっていくのではないかと思う。単身世帯が増えつつあるのだし。個人というのは政治的なパワーがないので、政治家が動かないこともわかっている。ただ、再分配の最適解は考え続けてほしい、あんたらの仕事ってそれでしょうが。