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胎内記憶、虐待する親をなんで選んで産まれてくるの?というエピソードについて

私は、この投稿をふと目にしました。様々な感情がかけめぐりました。
今、この投稿に対して色々と思うことがあり、それをまとめてみました。

お久しぶりです。めいと申します。
小学校高学年頃からネグレクトを受けた虐待サバイバーです。
今も希死念慮に襲われており、一生の傷を抱えながらも負の連鎖を断ち切れる様に気をつけながら、只今一児の子育て真っ最中です。

まず初めに。この投稿について。

この投稿は、決して
誹謗(他人を悪く言うこと。そしること。)や
中傷(根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つける事。)
を目的としておりません。
又、炎上も目的としておりません。揚げ足を取りたい訳でもありません。
ですので、このnoteに関して個人名称を出す事は一切致しません。個人批判をしたいわけではありませんので。
「彼」と表現していきます。
虐待を受けて生き残ってしまった自分のエピソードを踏まえ、自分の価値観で感想を述べていきたいと思っていますし、このエピソードに関する受け取り方の注意点を感想を通じて伝えていきたい思っています。
私の引用では彼の文字や絵の雰囲気も伝えられず、文字を引用しているのみになるので、必ず実際投稿を見てからこちらを拝見して頂き、貴方の考えで信じたい事を判断していただければと思います。

投稿している彼やこのエピソードを語る胎内記憶をお持ちのご本人達に指摘したいだとか、そういったことではありません。情報を受け取る側の貴方に、知っておいてほしい現実のエピソードがあるのです。
特に言葉通りの意味を持たない胎内記憶について、強く信仰している方には辛い言葉もあるかもしれません。
その点については、申し訳ありませんがご了承下さい。
それでも大丈夫な方は、お読み頂けますと幸いです。

私は、虐待を受けた子は、死んでも生きていてもたとえ和解したとしても、大なり小なり永遠に親から受けた傷は付きまとうだろうと思っています。

胎内記憶の投稿について

さて、上記に引用しましたInstagramの投稿を拝見しました。
私は以前から、言葉通りの意味を持たない胎内記憶について、大変危機感を感じており、毒親、虐待の加害者等を正当化するエピソードとして利用されかねない事に危機感を感じておりました。
自分のエピソードを交えて、虐待サバイバーとして、子供の目線、そして子を育てる親としての目線で、自分の価値観で感想を文字に起こしていきたいと思っています。

私が胎内記憶について初めて触れた時

私が胎内記憶の思想に初めて触れたのは、中絶時でした。
当時5ヶ月。出産と変わりない方法です。
ぼーっとしていた時、看護師さんから聞いた話が一番最初です。

私が中絶を経験した時のエピソード

葬式の手配を自分でし、これからしなければいけない事を整理し、涙が止まらず廊下でぼーっとしていた時のこと。
看護師さんが話しかけてくれました。
「赤ちゃんはきっと産まれてこれない事をわかっていた。貴方がそうやって強く望んでいれば、きっとまた貴方の所へ帰ってきてくれると思う。」
私が殺したのに、赤ちゃんはそれをわかっていたと。私が望めばまた帰ってくると。
そう、看護師さんは言うのです。慰めてくれるのです。
私の中絶がそうでしたが、分かっていても辛く苦しく二度と体験したくない出来事です。
死など、それらをも超える二度と経験したくない出来事でしょう。それを体験する事が分かっていて了承していたとしても、実際に体験すれば考えが変わる事もあるでしょう。でも赤ちゃんにはそれがないとでも言わんばかりの話です。
私の心はもうボロボロで、それにただ頷くしかできませんでした。
そんな都合のいい話があるんですね。私はそれに縋りたくなりました。
が、罪を背負うと中絶を決めた時に固く決意した以上、自制しました。例えそれが本当だったとしても、私がそれらを信仰する資格はないし、真実がどうであれ、あの子の本当の気持ちも、声も、私が生きている限り私に届く事は永遠にない。
例え風の噂でその子の話だ、として聞いた話があったとしても、それが本当に本当の話であるのかどうかを本人に確かめる事は永遠にできないのです。

https://note.com/mei_mei_mei/n/n98cab03c5e34

私が経験した時に言われた一言と、なぜその胎内記憶の思想とも受け取れる様な看護師さんの話に、私は縋らなかったか、の理由です。
特に声を大にして言いたい。
「例えそれ(エピソード)が本当だったとしても、(略)真実がどうであれ、あの子の本当の気持ちも、声も、私が生きている限り私に届く事は永遠にない。」
そう、我が子の声を実際に聞く事は永遠にありません。
誰かを介して聞くことができたとしても、それは果たして本当に私の子供の声なのでしょうか?
私の子供に当てはまるエピソードなのでしょうか?
それは、私が死ぬまでわかりません。
死んだとしても、一生わからないかもしれません。
その様な危険性を孕んだエピソードだと、私は考えてしまうのです。
絶対に我が子はそうなんだ!と言い切れる人はいますか?我が子の声を、本当に聞いたのでしょうか?
私は、聞いていないのです。我が子の声を。
怨んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、慰めているのか、笑顔なのか、私は声が聞こえないし見えないので死ぬまで一生わかりません。
第三者を介した言葉を、信用もできないのです。
それは第三者を介している、完全な我が子ではないのです。
それを前提とすると、私は完全に鵜呑みにできないのです。
苦しんでいる母親は見たくないだろうと声をかけてくれる人も、中にはいるかもしれません。
勿論、そうだったら良いなと思う自分は少なからずいます。また会いたいとも思います。
でも私は、あの肉体とあの魂で、会いたかったのです。別の肉体ではなく、あの肉体で、あの子と向き合って、元気に会いたかったのです。
なので、全面的に「そうだ!大丈夫!またきてくれる!よかった!」と信用するのは、私は違うと思ってしまうのです。
そして、実際に生まれ変わってきてくれたとして、その時の肉体を否定する様な事を、したくはないのです。あの肉体とは、二度と会える事はないのですから。
自分都合で殺した私にとって、子供が恨んでいるかもわからない状況で、私が本人の言葉も聞いていないのに勝手に他人のエピソードで「あの子は恨んでいないんだ!よかった!」と騒ぎ立てた時、当の本人はどんな気持ちになるのでしょうね。
これは、完全に私の価値観です。

本来、死者は何も語れません

「胎内記憶」というのは、一般的にはお腹の中にいた頃などの話を覚えていると言う、言葉通りの意味を持つものと、もう一つあります。
「胎内記憶」という言葉通りの意味を持たない、生まれてくる前の記憶を持っていたり、どうやって命をもったか等大変スピリチュアルな意味を持つものがあります。
先程看護師さんが慰めてくれた様な、産まれてこられない事は子供自身わかっていた、もう一度お腹に宿って産まれてくる等エピソードは様々です。
私は、その後未受診妊婦を経験し、二度特別養子縁組に出し、今子供が1人おります。
ここに辿り着くまで、様々な事を考えました。
ただ、いつも辿り着くのは本当にあればいいなと思う気持ちと、もし本当ではなかった事を考えた時の恐怖感です。
多分、言葉通りの意味を持たない「胎内記憶」を信じている人は、それらのエピソードが本当ではなかったとしたら?なんて微塵も考えた事がないでしょう。
なぜ私は恐怖感を伴ったか。それは、私の場合命を失っているという感覚が強い為か、その考えが我が子達への冒涜、死者への冒涜になりかねないと思ったからです。
私も「本当にそうだったらいいな」と思う事はあります。ですが「本当にある」とは思いません。上記の通り、本当でなかった場合は故人が語れない事をいい事に利用し、捏造したエピソードである可能性があり、もし捏造だった場合は死者への冒涜になりかねないからです。
死者は本来何も語れません。だからこそ、間違っている事があっても教えてくれる事はありません。
もしも本当は流産するのがわからず命が宿っていたら?
もしも本当は親を選べないんだとしたら?
本当の事を確かめる術がない以上、最早言葉通りの意味をなさない「胎内記憶」は思想となってしまい、その思想を我が子に押し付ける形になりかねない、と感じました。
例えば、我が子をあの時お空に帰った子の生まれ変わりだと持て囃す事は、目の前の我が子にとっても、居なくなってしまった我が子にとっても、失礼である可能性、そして事実ではない可能性がある事は、例え信仰していたとしても忘れてはいけない事であると強く思います

https://note.com/mei_mei_mei/n/n98cab03c5e34

私がここで言いたい事はこちらです。
「多分、言葉通りの意味を持たない「胎内記憶」を信じている人は、それらのエピソードが本当ではなかったとしたら?なんて微塵も考えた事がないでしょう。
なぜ私は恐怖感を伴ったか。それは、私の場合命を失っているという感覚が強い為か、その考えが我が子達への冒涜、死者への冒涜になりかねないと思ったからです。
死者は本来何も語れません。だからこそ、間違っている事があっても教えてくれる事はありません。
もしも本当は流産するのがわからず命が宿っていたら?
もしも本当は親を選べないんだとしたら?
本当の事を確かめる術がない以上、最早言葉通りの意味をなさない「胎内記憶」は思想となってしまい、その思想を我が子に押し付ける形になりかねない、と感じました。」

流産を経験し、更に信仰している親、それで救われた親からすれば、この言葉を受け取るとかなり傷付く人もいるかもしれません。
でも、考えて下さい。
私達は、大半の人が霊との通信手段を持たずに、第三者を介して言葉を受け取っているはずです。
生きている人が発した言葉を第三者が発する時もそうです、ニュアンスが変われば、言葉が変われば、最初に発言した人の解釈と違う意味合いで伝わる事はないですか?
本人が実際に話しても、違う解釈で受け取られる事もあるのです。第三者になると更に可能性は高まります。
生きていれば、コミュニケーションをとりながら話せれば、なにか解釈が違えば否定する事ができます。
ですが、この世にいなければ、2度と貴方に真実を教える事ができません、訂正する事ができません。
できたとしても、死後の世界であり、長年その思想を信仰した後に長年訂正する事ができず信仰して幸せそうな母親を長年見続けてきた我が子から突きつけられる事を想像してみて下さい。
貴方の立場でも、お子さんの立場でも、とても辛いと思います。
そして虐待サバイバーとして、子の立場から言わせてもらうと、子は親の顔色を伺います。
小さければ小さいほど、親が喜びそうな事を言います。それが例え嘘であってもです。
「じぶんのきもち」を言語化する事も難しく、抱えている気持ちがどの感情に当てはまるかわからない、どう伝えればいいかわからないというのも理由の一つです。
なのでその場しのぎに親がその場で喜びそうな事を反射的に選ぶ傾向にあり、質問者が子の回答を誘導できます。
それで貴方が喜ぶならと真実を一生教えてもらえないかもしれません。
死しても尚、子に気を使わせるおつもりですか?
その可能性がある事も、十分に考慮して信仰していただきたいと強く思っています。
そうかもしれないと思うと同時に、違うかもしれない、という事は常に頭に入れておかないと、現実を見失ってしまう可能性がある様な気が、個人的にはしています。

暴力は甘えなのか?

人に暴力ふるったり
暴言というのは、
人に対して
甘えた行為になる
(甘えるのは2種類
きずつける甘え、
いやしを求める甘え)

https://www.instagram.com/p/C0K2cKuPrlm/?igshid=MzY1NDJmNzMyNQ==
3枚目の画像より引用

ここからは冒頭に触れたインスタ投稿に触れていきたいと思います。

暴力を振るう行為に関して、子供の暴力的行動にしろ、大人になってからの暴力的行為にしろ、原因はとても様々で複雑です。
調べるだけでも沢山の問題点や理由が指摘されています。
投稿の2枚目には

まず、子どもに暴力、
これは絶対
したらいけない!

https://www.instagram.com/p/C0K2cKuPrlm/?igshid=MzY1NDJmNzMyNQ==
2枚目の画像より引用

と記載があります。
それを前提にしたとしても、解説があまりにも稚拙で、沢山の諸説ある話の中にある一つを話しているにすぎません。
それだけを見た人はその話だけが頭に残ります。
ですが、声を大にして言いたい事は、暴力を受けた側には、暴力を振るう理由は何も関係がない、という事です。
そして、暴力を受けた側は暴力を振るう理由を知る必要も理解する必要もない、という事です。
何が理由にせよ、暴力を受けていい理由にはなりませんし、それを「甘えた行為」というエピソードをいきなり提示してしまうのは、とても安易だなと感じてしまいました。
そのエピソードを必要としている人は、虐待を実行する等、暴力を振るう事を正当化したい人達が一番必要としているからです。
実際、自分に当てはまる人達がこのエピソードを見て感じることは「そうだよね。だから仕方ない部分もあるんだ。」と正当化してしまいます。
元々反省する人なら、日常的に暴力を振るう事はしないからです。
元々反省する人なら、子供が寝てから反省した後、然るべき機関へ自ら赴き行動するからです。
暴力を起こしてしまう原因を家族だからと理解する必要も、一切ありません。
この問題は家族内ではどうしようもなく、専門家の知識と治療が必要であり、それ以上に本人の自覚と反省が一番必要だからです。

親から子供への暴力に関していうと、
個人的な印象としては、になりますが、
承認欲求型よりも支配欲型の方が多い様な印象です。
実際はそのあたりどうなのでしょうか?
医学的に詳しく知りたいなと感じました。

親の為、命懸けでうまれてくる
立派に成長して良かったね!

雲の上でそういう親を
選ぶのは、だれも甘えられる
人がいないなら、
ぼくが甘えさせてあげようって
命懸けでうまれてくる
これ、おぼえておいて!
どれほどやさしいか!!
(おまえがえらんだんなら、ガマンしろって
暴力する人もなかでは、いると思います)

https://www.instagram.com/p/C0K2cKuPrlm/?igshid=MzY1NDJmNzMyNQ==
4枚目の画像より引用

上記に書いた事と少し重複する部分があると思いますが、どれほどその子が優しかったとしても、この後のエピソードに出てくる子が「暴力を受けないと愛情に不安を覚える(こちらは意訳なので必ず引用元の文章を確認して下さい)子」が居て、その後養護施設の先生と話し合い立派に成長したとしても、子供が暴力を受けていい理由には全くなりません。
まず、そもそも何故「暴力は絶対にダメだ」と前置きがあるのに、この4枚目の後に出てくるエピソードが「暴力を受けないと愛情に不安を覚える(こちらは意訳なので必ず引用元の文章を確認して下さい)子」の話なのでしょうか?
仮に、暴力があったからこそ、その子に困難を乗り越えたその後があって、立派に成長したとしましょう。
困難を乗り越えたから、立派に成長出来たから、よかったね!となりますか?

今、よかったね!となった人へ
貴方は、その子にもその後の人生がある事を想像できていますか?

自分語りになりますが、私は現在一応手に職もあり、結婚もし、子供もいます。
それだけ見ればある意味幸せな家庭でしょう。
ですが、私はそれが良かったねとは思えません。
一生残った傷跡があります。ふとした時に思い出しますし、その弊害で起こった数々の困難に希死念慮がついて回ります。
癒える事はなく一生抱えて生きていく傷跡があるのです。
虐待サバイバーは、節目節目に過去を思い出し、飲み込み、背負って生きていく事になります。
勿論それが全てではありません。彼のエピソードもそれが全てではないでしょう。
でも、このエピソードは良かったね!で終わる話ではないのです。例え笑顔で語っていても、記憶には強く刻まれている数々の傷と困難があります。
トラウマとして残り続ける傷の可能性も十分あるのです。隠して語ったのか、乗り越えて二度と辛い記憶として思い出さない良い思い出としてしまっているのか、本当の所は本人にしか分かりません。
でも、鮮明に残っている記憶だとするならば、良い思い出と出来る人は、正直かなり少ないのではないでしょうか。
是非、それを前提として、受け取って頂きたいです。
その人は、暴力があってこその今があるとしても、当時は深く傷つき、又、傷付く必要も全くなく、親を成長させる必要もなく、本人の努力の賜物で今現在があるのです。
更にいうと今現在もその傷と向き合っている最中かもしれない。
本人が実際に語っているのではなく、養護院の先生がメインであり、実際立派になった被害者にも会っている様だから本人からも聞いている?のかもしれませんが、推測にすぎません、何にしても他者が沢山挟まっている情報なのです。
そう思うと、少し見える世界が変わってきませんか?
これは決して、よかったね!といえるエピソードではなく、養護院の先生のエピソードを入れる場所ではなかったのではないかと、私は感じてしまいました。
ツラい所だけを点で見てはいけないかもしれませんが、無かったことにするのも違うと思いますし、特に、癒えていないのにツラい事に蓋をして見えない事にするのも違います。
虐待は、ツラい所ではなく、大人になっても辛いのです、現在進行形で。
辛かったにして行く作業は必要です。それを見ないふりすれば倍以上になっていずれ自分に帰ってくる様な出来事なのです。
虐待を経験した事ない方は、想像を絶する体験なのだという事を理解し難いと思います。
死亡事件であれ、運良く生き残った案件であれ、軽く受け取っていい虐待エピソードなど、何一つないのです。それがわかる方は、きっと少ないと思います。

今から語る事について、再度前提を確認したい

まず前提として、私は彼のこの投稿に関しては、全てに目を通しました。
そして深く考えました。私の経験も踏まえて、沢山考え、深く考えた上で、感想を述べることにしました。
これを表現であると、作品であるとして公表するならば、感想を述べる事もまた自由ではないでしょうか。
投稿の文章、一文には、

⚠️
批判的コメントは、全て削除します😌
弁護士と相談して情報開示します。
一言の嫌な気分にさせるコメントで
大変な問題になりますので、ご注意を。

https://www.instagram.com/p/C0K2cKuPrlm/?igshid=MzY1NDJmNzMyNQ==
投稿文章の最後の文章(ハッシュタグを除く)より引用

とあります。
彼がどの様な作品を作ろうと、表現の自由であると私は考えます。公開停止も求めません。
それと同じで、作品に対する感想や、意見、論評もまた、表現の自由だと考えます。
私は主にこのnoteの文章に関しては、彼に対して何か言いたいだとか誹謗中傷したい、傷付けたい等では全くなく、私がこの作品に対して感じた感想を通じて、胎内記憶の受け取り方について考えてほしい事があるのです。
それが、彼への批判的文章だと受け取る方も中にはいると思います。
家庭もあります。裁判が通る内容であると判断される様な内容を書いてしまっているとしたらどうしよう…と正直とても怖いです。
それでも、私はこの感想を通して伝えたい事があるのです。理解してほしい事があるのです。
その上で、信仰してほしいのです。
なので、頑張って感想を続けたいと思います。

親の魂を成長させる、とは

もちろんDVで亡くなる子もいる
親の魂を成長させる為に。
キレイごとばっかりかいてんな!って
こういう質問くるのは、わかるよ、
ただナナメ見する人も
うまれた頃なにかをよくするために、
うまれてきてる
赤ちゃんはすばらしい、
だからぼくは、毎日かく、
虐待は、絶対したらいけない!
(イヤなコメントは、けします、
SNSでのいやがらせ絶対反対!)

https://www.instagram.com/p/C0K2cKuPrlm/?igshid=MzY1NDJmNzMyNQ==
9枚目の画像より引用

何度も記載して申し訳ありませんが、私は決して嫌がらせをしたい訳ではありません。
綺麗事を書いている作品だとも思いません。
ナナメ見(捻くれたあるいは穿った見方で物事を捉えること。)もしていません。
作品を通じて受け取った事を、感じた思いをそのまま言葉にしていきます。

親の魂を成長させる為に、子供は生まれてきていないと私は思います。
私は、子としてネグレクトという虐待を受け続けてきました。又、親として中絶も経験しましたし、特別養子縁組にも出しました。子も育てています。
それを経て思う事は、子供は親を選んで生まれてはきませんし、その後の人生を全て受け入れた上で生まれてくる訳ではない。ということです。
私は親を喜ばせる為にも、成長させる為にも生まれてきていません。実際、親は結局スピリチュアルやマルチにハマり、お金を貢ぎ続けています。多分、私のせいです。
親戚の殆どがそのよくわからない整骨院の人に色々医学的な事や食事療法等を吹き込まれ(※整骨院の方が持っている資格は柔道整復師であり、決して医師ではありません。医師と比べると健康保険が使える症状は限定されています。)高い水を買ったり、無農薬にハマり、セミナーや講座にお金を費やしています。
私に対しては少し反省の意を示したものの、何か悪かったかは一切言葉にしませんでしたし、理解していないと思います。一切私は親の反省を感じていません。支援もありません。
目の前の子供には目もくれず、大事にもしないのです。
目の前の家族を大事にできないのですから、子供である私は親の魂の成長すら促せていません。

また、親がそういう行為をしなければ生まれてきませんし、言い方が悪いですが、親が子の命を選べます。子供が選ぶのではありません。親がまず、子の命を選べます。
子を生かしたいと思ってお腹の中で育て、子を育てたいと思ったから自分自身で育てているのです。
勿論親の影響がない所で命を落とす理由も様々ありますし、五体満足に生まれてくるかどうかはまた別の話になりますが、まずは親が子の命を選ぶのです。子供ではありません。
子が親を選んだのではなく、ある意味で親が子を選んだに等しい、と私は思っています。

私自身が、産むと決めて。
私自身が、自分で育てると決めたのです。


子に何か節目節目があった時、その判断に、子を育てる責任に押し潰されそうになる事もあると思います。自分が決めたからと言って押し潰されるまで1人でかかえることは間違いだと私も思います。
子に何かあった時に、私が選んだんだと過度に負い目に感じる必要もありません。
でも、それらを子供にも負担を背負ってもらう事は、私はしたくないなと思ってしまうのです。

虐待サバイバーとして思うこと。

虐待サバイバーとして思う事は、私もそうですが全員が、例え覚えていなくとも子供は親を成長させる為に生まれてはきていないという事です。
もし仮にそういう子が居たとしても、そのエピソードを親が鵜呑みにして接するのはまた違うと思います。

私も、子供は生まれた時から存在自体が特別だとは思います。
でも、子供だから特別なのではなく、大人でも子供でも誰1人として特別じゃないという人はいないのです。
でも、特別だからといって何か使命を持って生まれてきた訳でもないのです。
使命や生まれた理由があるから特別なのではなく、一人一人の存在自体が、誰かにとっては特別だったり大切な存在になるのです。それ以上でも、それ以下でもありません。

使命を持ってるから我が子を可愛がるのですか?
成長させる存在だから我が子を可愛がるのですか?
何か成してくれる我が子だから可愛がるのですか?


そうではないですよね。
我が子との適切な距離感を忘れてはいけないと思いますし、何かそういうフィルターを通して子供を見るのではなく、その子自身のありのままを見てあげる事こそ、必要な事なのではないでしょうか?

本人ではなく第三者が胎内記憶を語るにあたって

語るにあたり、どういう経緯や理由がなんであれ、子になにかする時にこれらの胎内記憶エピソードを鵜呑みにて、正当化して子に使用してはいけないということです。
そして、これらのエピソードを受け取る側が、悪用して子にぶつける親は少なからず居ます。
なので、特に記憶がある本人が語るならともかく、第三者がノンフィクションとして語るには特に注意が必要だと知って欲しいのです。
例え人によるとしても、全員に当てはまらないとしても、こういうエピソードがあると、他人に語る時には注意が必要なのです。
YouTubeでも深堀されている様ですが、それを目にした虐待児はどう思うのでしょうか?
虐待サバイバーも同じくです。

実際私は、中絶時に言葉をかけられおかしいなと感じながらも受け流し、後々更に考え込む事になり、傷ついています。
毒親から言われれば更に傷付いた言葉だと思います。
何故親や他人が子供は親を選んで産まれてくると言ってしまうのか?こういう作品や発信があるからこそこれがノンフィクションであると信じている人が少なからずいるのです。
これは発信者側の問題と言うよりも、受け取り手側の認識不足だと感じています。
その物語に、他人の苦痛が伴われている事を1度でも考えた事はありますか?人生の一部が欠損してしまい、一緒抱えて生きていかなければならない苦労を想像したことがありますか?
例えば、死までも選んで生まれてきているとしても、実際にこの世に来て死にたいと思う子など、果たしているのでしょうか?
その言葉は、その物語は、フィクションだからこそ成り立つ事であり、ノンフィクションとして聞くには当事者の声が圧倒的に不足しており、またそれを語っているのは当事者では無い、今この世に存在している今は虐待を受けていないであろう第三者の子供であるという事も念頭に置いて頂きたいです。
そうすれば、感じる事はただひとつ。
本人の話を聞いていない以上、そういう事もあるかもしれないね、ぐらいに留める。
そういう方が大半である
と、私は信じています。
それ以上の踏み込みは、思想と代わりがなく、ある意味信仰だと私は考えます、自分の子供にその思想を、信仰を押し付けていないか?を考えて頂きたいです。
そして、これ以上毒親が虐待を正当化する為のエピソード、罪悪感を少しでも緩和する為のエピソードが広まらない事を祈らずには居られません。
広めている本人は善意であるとは思いますが、少し考えればわかるはずです。
毒親が使う可能性を示唆するのではなく、注意喚起が必要であるという事を。
虐待とは身体的苦痛だけではありません。精神的苦痛も含まれます。このエピソードで、子供を虐待しているご自身を正当化しないで下さい、罪悪感を和らげる為に使用しないで下さいと。
虐待がダメと言っているから同じではありません。
直接的に言葉に表す事が大切なのです、それでも当事者の毒親は気付かないから、発信する側に気をつけて頂きたいと切に願っていますが、それは難しい為、受け取り手側である方々にむけて、虐待サバイバーとして、そして親として思う事、感想を発信する事により、少しでも何かが伝わればいいなと願わずにはいられません。
あなたが信じるのは自由です。でも、子供含めて他人には押し付けないで欲しい、私にとっては信仰、思想なのです。

最後に

最後に、これ以上虐待されている子供が苦しむ事がない様、切に祈ります。
言葉通りの意味を持たない胎内記憶は、ありのままノンフィクションとして受け取るには何故問題なのか、当事者の目線で少しでも何か伝える事ができたならいいのに…と思わずにはいられません。
ここまでの長文にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。

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