PARCO PRODUCE 2024『リア王』
ここ数年、観劇にすっかりハマってしまって劇場に足を運ぶことも増えてきた。映画は備忘のためのメモをFilmarksに、読書記録はブクログ(こちらはたまにだが)に残している。しかし、観劇の記録はどうしよう。
….と困っていたら、折よく友人に「noteを書け」と薦められた。時間は経ってしまったが、忘れない内に急いで書き残しておきたい。
3月下旬、東京芸術劇場プレイハウスにて「リア王」。
話が分からない=戯曲が読めない という気付き
シェイクスピアは高校時代から主要作は読んできた。ただ、さっぱり中身を覚えていない。なぜか覚えられないのだ。ふと自分が内容を覚えていないことを思い出すたびに読み返したりもしてきたが、それでも繰り返し忘れてきた。
「リア王」を翻案した黒澤の「乱」も最近見返したばっかりだし、まあ劇場で観ている内に思い出すかもしれない….?なんてゆるく構えていたが、一緒に観に行く友人が元の戯曲をしっかり読んで臨むと宣言していたこともあって、自分も慌ててkindle購入。結果的に万全の体制にて当日を迎えることとなった。
話の筋としては、ブクログにも書いたが下記のような感じ。
今回、「リア王」を実際に観劇して分かったのは、話の筋としては一時的に分かったつもりでも、その戯曲に流れている感情を汲み取れていないから内容が頭に入ってこなかったのだということ。そりゃそうだろ…とも思うが、ではなぜ頭に入らないのか?を考えると、それはきっと戯曲を読めていないからだろう。
小説ではセリフ以外にも心理描写が事細かく書いてあるため、登場人物の置かれた状況やその時の心理を想像するのは難しい作業ではない。しかし、戯曲はそうではない。自分が読んできた戯曲は数少ないが、どれもむしろ読者には不親切とも言えるくらいに情報が少なかった。
素人の目には空白にしか見えない会話の隙間に、演出家は劇作家が託した意図を見い出す。書いていないからこそ、様々な味付けが演出のフェーズで可能になるのだろう。また、きっとそれこそが観劇の醍醐味の1つでもあるはずだ。今回、感情を込めた発話がなされることで初めて気付くことが多くあった。
加えて、シェイクスピアの天才性に初めて気づけたのも今回の観劇のおかげである。400年くらい前の人だよな….と思っていたら、翻訳の松岡氏がインタビューで下記のように話していた。
演出について
松岡さんがすべて解説してくれているので、また引用。写真で見ると変な感じなのだが、実際に見続けていると全然気にならなくなるから不思議。
セリフがそのままなので、予習しておいて本当に良かった。大昔の話ではありながら、セリフも変更せず、舞台設定や衣装をかえるだけ。王の退位をめぐる話でありながら、どこかのオーナー企業の社長が社長職から退く話にも見え、いかにその権力を手放す事が難しいか、昭和に生きた男の価値観が時代錯誤のものとなって子供たちに見放され、クーデターを起こされて会社乗っ取りに遭う話にも思えてくる。
役者について
今回、個人的にいちばん驚いたのがコーディリアを演じた上白石萌歌。この人以外にコーディリアはもはや考えられない。歌パートもあるのだが、まるで天使の歌声で、お姉さんも含めてどうしたらこんな子供が育つのか。
この「リア王」は娘たちを失う親の悲劇でもあり、自分も娘の父であることからその心中を思うに耐えられないものがあった。
鈴木版「リア王」
敬愛する鈴木忠志氏は「リア王」の演出にあたってこう書いている。
鈴木さんの場合、「リア王」に限らず戯曲をそのままという形ではなく、素材の断片をつないでテーマをより先鋭的に際立たせる方法を取る。
自分は演劇を見始めたといっても、ほぼ鈴木演劇しか観ていないので、今回のような元の戯曲を戯曲通りにやる演劇(こちらが一般的なのだろうが)はむしろ新鮮だった。
ただ、こうなってくると鈴木版がどうしても観てみたくなる。Youtubeにも上がっておらず、DVD-BOXにも未収録。この夏、利賀でやってくれたりすれば良いのだが。