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NODA・MAP第24回公演『フェイクスピア』

戯曲を読んでから、WOWOWの録画にて鑑賞。戯曲を読んでいたにも関わらず、序盤・中盤は流れを追うのが難しく、その後もう一度戯曲を読み直してもう一度鑑賞した。録画しておいて本当に良かった。

SNSから現実社会まで“フェイク”が蔓延するこの世界に対して野田秀樹が「コトバ」と正面から向き合う新作。高橋一生らが魅せる演劇史に残る驚愕のラストシーンは必見!

“フェイク”があふれる現代社会と、イングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアを掛け合わせた斬新な舞台「フェイクスピア」を放送する。野田の緻密な脚本と演出、そして、俳優陣のすさまじいエネルギーと驚愕のラストシーンは、まさに「演劇の力」で観客を圧倒した。主演を務めた高橋一生の真摯に響くせりふとしなやかな演技力に加え、橋爪功と白石加代子が醸し出す稀有な存在感が観る者を魅了。川平慈英、伊原剛志、前田敦子、村岡希美らの新たな魅力も見逃せない。いまだ混沌とする時代の中、演劇人・野田秀樹があらためて生の演劇の悦楽を、さらにはわれわれが生きる現代を、鮮烈に、挑発的に描き出す。2021年最重要作品に期待していただきたい。

https://www.wowow.co.jp/detail/173838/001

この「演劇史に残る驚愕のラストシーン」こそが、『フェイクスピア』誕生の原点である。過度なネタバレにならないよう気をつけながら、感じたことをまとめていきたい。

『Q』も読んだのだが、ソフト化されておらず観る手段がない…。

野田秀樹による作品コメント

まず、戯曲本の表紙にもなっている作品コメントを見てみる。

https://www.nodamap.com/fakespeare/

つまり、「演劇史に残る驚愕のラストシーン」は「コトバの一群の引用」で展開する。しかも、そのコトバは「創り変えられてはならない強いコトバ」であり、それはフェイクではないマコトのコトバであるということだ。

『フェイクスピア』の構造

じぶんが知っている野田作品で近い構造を持つものは「兎、波を走る」である。つまり、物語の行き着き先が実際の歴史的出来事であり、そこでの実際の言葉の引用によってラストシーンが構成されている。『フェイクスピア』ではフィクションとノンフィクションとが対比されながら、"現代におけるマコトのコトバとは何か?"が突きつけられる。

舞台は盂蘭盆前夜の恐山から始まり、白石加代子がイタコとなって口寄せた死者の霊たちがコトバの価値を巡って争う。mono(高橋一生)が守り続ける「マコトの葉」は今では忘れ去られつつあり、人間はもう誰も振り向いてもくれないから神様にコトバを返そうと議論がなされる。匿名のインターネット空間では「ダッセえ」「時代遅れだ」等と非難も受け、マコトのコトバは新しいフェイクのコトバに置き換えられつつもある。

そうした現状において、フィクションである舞台演劇ができることとは何か?野田秀樹はシェイクスピアの姿・言葉も借りながら、フィクションとノンフィクションとが渾然一体となる中で、「コトバ」や「声」に関する価値判断を観客に問いかける。こうした形の死者への鎮魂・追悼というものがありうるのだとラストは鳥肌が止まらなかった。

自分用のメモです。

役者陣(特に高橋一生)

WOWOWの放送では、ある日の公演終了後に行われた野田秀樹・高橋一生・橋爪功・白石加代子の4名へのインタビューの様子も収められており、そこで野田秀樹は「高橋一生という役者がいれば、この演劇は成立するとワークショップの時に感じた」というような話をしている。

逆説的に問うならば、高橋一生以外にこの演劇を成立させられる役者が他にいたのだろうか?自分はそれほどに驚いた。彼の姿は「兎、波を走る」で実際に劇場で観てもいるのだが、そちらは松たか子と多部未華子が見せ場を取ってたからな。….なんて言い訳もしたいところだが、『フェイクスピア』での彼は本当に圧巻の一言だった。岸辺露伴さえ、観てみたい気分になっている(どうでしょうか)。

他では川平慈英、村岡希美さん(玉川学園がご出身とか!)も素晴らしかった。この2人は安定していて、笑えるし泣けるし、実力のある方。

ラストの引用部分は、戯曲を読んでいる段階でどんな演出になるのか最も楽しみかつ予測不可能と気になっていた部分だが、さすがの一言。今更になって『正三角関係』をスルーしてしまったことを痛切に後悔しています(リセールは順調に毎日ハズレ続けた…)。

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