偏愛、そして言語に漂流
うすうす気づいていたけれど、わたしはやっぱり「言語」が好きである。
その兆しは小学生の頃から現れていた。当時、漢和辞典を眺めるのが趣味だったのです。わたしは特に人名漢字が好きで、「あぁ、これ、きれいだなぁ」とか、「名前にこの漢字が欲しかったなぁ」とか、漢字に隠された意味などを知るのも楽しく、今思えばあれは陶酔に近いような感覚だった気がする。
こうして文章を綴ることも昔から好きだけれど、「閉じる、開く」って専門用語になりますが、何を漢字にして(閉じる)、何をひらがなにするか(開く)、みたいなところも味わっているふしがある。うっとりするようなバランス。わたしにとっての元祖うっとりは江國香織さんなのだけど、彼女の文章の閉じる、開くのバランスはとにかくもうページを眺めているだけで満足できる。これってちょっと変態的な感覚なのかもしれないね(そして大学の卒業論文は江國さんについて書きました。タイトルは『江國香織論〜孤独ときらめきが同居する世界〜』)。
でね、そもそもなぜこんなことを書きたくなったかと言うと、今年に入ってから英語を勉強しているんです。英語を話す・書く・読む機会が日常に織り込まれると、今まで日本語に対して持っていた視点を英語にも向けることになって、改めて言語・ことばについて考えることが増えたというわけ。
英語を習い始めてまず思ったのが、英語ってシンプルで機能的だなってこと。対して日本語は情緒やふくらみや、いろいろに味つけしやすい言語な気がする。これはわたしが完全なる日本語話者で、英語のボキャブラリーも作文能力も乏しいことが大いに関係しているのかもしれないけれど、なんかもう英語って見た目の時点でシンプルなんですよ。
This is a pen.
I always wake up at 7:00.
だってアルファベットだけだもんね。日本語は漢字、ひらがな、カタカナがあるわけだから、その時点で圧倒的な違いがある。
わたしが英語を学ぶに至ったのは、海外の翻訳ものの書籍のお仕事をするようになったことも一因。翻訳された文章って、良くも悪くも翻訳者のエネルギーを纏うなぁと思うんです。その人の頭のなかや、ものごとの理解の仕方がそのまま現れてしまう。村上春樹さんのように、作家としても活躍している方は言語センスに長けているから、やっぱり翻訳文も読みやすいなと思うんだけど(好みもあると思うけどね)、必ずしもそういう人ばかりじゃない。だから、著者の言いたいことをそのまま受け取るには、原文で読んだ方がいいんだろうなと思ったの。特にスピリチュアルのような分野は、英語の方がシンプルにものごとを表現していて、本来のエネルギーを受け取れる気がして。
占星術的に見ても、数秘術的に見ても、「海外」はわたしにとって大きなキーワードでした。ただ、旅行にしろ仕事にしろ、海外に出て行くには英語が必須になるわけで、「英語喋れないしなぁ…」と今まで尻込みしていたんです。わたしのフットワークの軽さを考えると、世界を好きに行き来しながら働くスタイルも向いていそうなのに、「英語喋れない」だと全部おじゃんになる。そもそも、もの書きとしてやっていくにも、「日本語しか操れないしなぁ」ってことで必然的にフィールドが国内に限られてしまうのももったいないな、と。そこで、一念発起したわけです。
英会話スクールは、これまた今までとは別の世界って感じで、なかなか刺激的で楽しい。知らなかった世界の情報を知ることができるし、英語を介して自分自身の新たな一面も見えてくる。
そんなわけで英会話スクールでのあれこれや、ことばにまつわる思いなども、これからときどき綴っていきたいと思います。では、See you next time!