支援を超える「ありのままの肯定」
「子どもの頃、どんな支援がほしかった?」と聞かれることがある。
私は学校から見過ごされた経験も、福祉につながった経験も、両方持っている。見えるか、見えないか。そんなギリギリのラインにいた子どもだったのだと思う。
そして今は、子どもや家族をサポートをする側になっている。
サポート側の立場も分かるからだろうか。「どんな支援がほしかった?」そう聞かれることが多い。
そんな時、「本当に求めているものは、「支援」なんですかね?」と問いを投げ返すことがある。自分自身が、アンチ支援。つまり、助けられる存在にされることへの抵抗感を持って育ったからだ。
一番ほしいものは「支援」ではなくて、自分を見ていてもらえることなのではないか、と思う。
根っこにある「哀しみ」や「悔しさ」
少し前に、同じようなことを感じた出来事があった。
疎遠になった友だちが「親にとっとと死んでほしい。むしろ清々する」と言っていた。
直感的に、親への憎しみを表した言葉じゃない、と思った。
表面的には「憎しみ」に見えるけれど、その根っこにある感情は、「哀しみ」や「悔しさ」に近いものだったと思う。
「見ていてほしかった」「認められたかった」「知ってほしかった」たった二言にいろいろな感情が垣間見えたような気がした。
正直、哀しかった。20代半ばになっても、そんな風に言わなければいけないほど、抜け出すきっかけに出会えなかったということ。こんなに長い間、ひとりで抱えて、思いを募らせてきたのかと。
共感力の足りない自分が、たった二言の行間を読めた理由。それは、彼女の生活や、置かれていた環境、話す言葉、振る舞いを知っていたからに尽きる。
それくらいそばに居たのに、自分は何をしていたんだろう、と思った。自分のことで精一杯で、そばに居る人たちを見つめて来なかったんだな、と気づいた。
ありのままの肯定を
10年の時を経て、今、私にできることはなんだろう、と思った。
今の私にできることは、今度会った時に「やっぱり、すごいよね」と伝えることだと思う。すごいじゃなくて、「やっぱり」すごい。ずっと尊敬の眼差しで見ていた、と伝えること。
彼女が本当に求めていたのは、自分のことを見ていてくれることだった。ありのままの肯定が必要だったのだと思う。
子どもに関わるうえでも、「かわいそうだから、助けてあげよう」じゃなくて、一人の人間として肯定すること。そして、「ずっと見守っている」と言葉や振る舞いで伝えることが必要なのかもしれない。
今後「子どもの頃、どんな支援がほしかった?」と聞かれたら、そう伝えようと思う。
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