母の死を、誰も知らない
母が亡くなって、10年。
もう時効にしてもいいよな。そう思い、過去のことを少しだけ。
当時、どういった心の動きがあったか、何が必要だったのかについて、子どもから見た描写を残しておこうと思います。
事例の一つとして、役立ててもらえることを願って。
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「あの日」のこと
14歳の秋のことだった。
9月半ば、学校はお休みで、家にいたのは父と私だけ。兄は部活に行っていた。
父が母を呼ぶ声が聞こえる。その声が、途切れない。
父はよく怒鳴る人だった。
なんだろう、何かまた怒ってるのかな。面倒くさいな……。そう思い、様子を伺いに行った。
母の姿を見た。
ああ、これは、違う。
とっさに、救急車を呼ばなきゃと思った。父を頼りにしている場合ではない、と。
人生で初めて、119番を押して、少しつっかえながら状況を話す。
そうだ、姉も呼ばなきゃ。一呼吸する間もなく、下宿して家を離れていた姉に電話をかける。
何を伝えるのが正解か分からなくて、緊張で声が震えた。どんな言葉をかけたのか、今ではもう覚えていない。
「気をつけてきてね」
そんな小さな気遣いができなかったことを、受話器を置いてから後悔したのを覚えている。
母の死を通して肌で感じた、社会からの孤立
母の葬儀に足を運んだのは、親族だけだった。
そうだ、母には友達がいなかったんだ。改めて、そう気付かされた出来事だった。
父が近所の人に毎日のように嫌がらせを繰り返していたことから、近所の人にも距離を置かれていた。
きょうだい3人が幼く見えたのだろうか。
葬儀に立ち会ってくれたお坊さんはこう言ってくれた。
「人間っていうのはな、2回死ぬんよ。
1回目は心臓が止まった時。2回目は人から忘れ去られた時。
みんなは、ずっと覚えといてあげような」
ああ、母はすぐに2回目の死を迎えてしまうだろう、と思った。
母には、家族以外に、一切の繋がりがない。
人が一人、自宅で亡くなったことを、5メートル先に住んでいる人も知らない。そして、これから先、気がつくこともない。
「あの人、最近見かけてないな」それすら思われない。
社会から孤立するというのは、こういうことかと学んだ出来事だった。
かけがえのない命という名の幻想
父方の祖母は、泣いていた。
「人生がめちゃめちゃにされた」と。
泣いていたのは、母のためではなかった。息子である父がかわいそうだと泣いていたのだ。
母は重い精神障害を患い、たった一人で夜逃げを繰り返していた。それがきっかけで、父は仕事を辞めざるを得なかったのだと言う。
なぜ、ある日突然に、蒸発したくなるのか。
母がどういう気持ちだったのか。
そんな話に、想像力を働かせることはなかった。
精神障害を抱えて生きることが、こんなにも理解されないことなのだと知った。
「死を通じて、復讐はできない」
それが、14歳の私にとって、一番大きな学びだった。
火葬した後、お墓を作れなかった。いや、作らなかったのだ。お墓代と称して、母方の祖母が父に渡したお金は生活費へと消えていった。
ゴミ屋敷に放置された遺骨。
ああ、そうか。「命はかけがえのないものだ」と教わってきたけれど、そうじゃない場所もある。少なくても、ウチではそうだ、と。
その日から、何があっても生きることを志すようになった。
当たり前の日常の、すぐ隣に死を感じる
葬儀の次の日から、また当たり前の日常が戻ってきた。
一日も休まず、保健室にも行かず、いつも通りに学校に通う。
面白くないことでも、とりあえず笑っておく。
学校の先生からも、死について触れられることもなかった。
誰かが亡くなっても、何も変わらず日々は過ぎていく。それが当たり前のことなのだと気づいた。
私自身も、何も変わらなかった。ある一部を除いては。
日々の生活で、死がすぐ隣にあるような強烈な感覚を持つようになった。
父は眠っている時、よく呼吸が止まる人だった。
いびきの音が止まった時、得体の知れない恐怖に襲われて、父の脈や呼吸を確認しに行く。それを一日に何度も、毎日欠かさず行なっていた。
その異常性に気づかないまま、日々が過ぎていった。
失うのが怖いのではなかった。
昨日まで普通に生活していた人が、ある朝、突然亡くなっている。「死」そのものが、ただただ怖かったのだ。
一番知るべきだったのは、SOSの出し方
当時は、正直、ただ一所懸命に毎日を過ごしていたので、人からの助けがほしいとは思っていなかった。
正確にいうと、人が助けてくれるということを知らなかったのだ。
「最近、どう?」と声をかけてくれる人がいること。私個人を気にかけて、見守ってくれる人がいること。
それらは、特別な人に与えられたものだと思っていた。
小さなことであっても「助けて」と言い続けること。それができれば、そんなかけがえのない存在を獲得できる。
私に必要だったのは、SOSの出し方を知る機会だったのかもしれない。
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