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表現と前進のバランスのこと

生活上の、なんらかのうまくいかなさがあった場合に、それを自分なりの表現方法に落とし込む(文章にしたり、あるいはなんらかの創作活動の形で昇華したり)という作業は大事なことだと思う。自己を肯定するという意味で。

大事なことではあると思うんだけれども、「苦悩を表現すること」があんまりにも上手になりすぎてしまうのは、やっぱりけっこう危険なことかも、と、たとえば太宰治の晩年の作品なんかを読むと、思ってしまうわけです。

(ここまで書いて、前もなんかこんなこと言ってたなわたし、と思ってTwitterを検索した。)(定期的に思っているみたいだ。)


自己の苦悩を表現することが「上手すぎる」状態になってしまうと、それ自体が目的化してしまう危険性がある。表現者としての成功が同時にその人の生きる苦しみを固定化してしまう側面もあるのかも。

現在進行形で生活を営んでいくうえで、
①やるせなさや閉塞感を昇華する作業
②人生を前に動かし、より良いものにしていく作業 

は、いずれも必要なものだと思う。

「②人生を前に動かし、より良いものにしていく作業」は、より実践的だったり地道な努力が必要であったり、地味だったりめんどうくさかったりするものだけど、それがなければ「①やるせなさや閉塞感を昇華する作業」は単なる閉じたものになりかねないわけですね。

いわば①と②は車の両輪のようなもの。

①が内面の充足を追求するものだとすれば、②は外側に働きかけて世界との接点を築く行為みたいなもんだ。どちらか一方だけではバランスを欠いてしまうし、最悪の場合どちらかが自分を飲み込むような状況にもなりかねないと思う。

結局のところ、①と②をどう折り合いをつけながら並行して行うかが、人生の充実感を左右するのでありましょう。

「①の視点を持ちながら、②を動かしていく」ことができたらいいと思う。表現が自分自身を「支える」だけじゃなく、前進のエネルギーに変わるようなものであるのが理想的。

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