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紅葉から枯葉へ、そして深まる秋

 紅葉シーズンが終わり、木々は色鮮やかな葉を落とし、冬の準備を進めている。人々の目は、赤や黄に染まった華やかな風景から、静かに佇む枯れ木へと移りゆく。私は、この枯れ落ちた風景の中に、どこか深遠な美しさを感じている。

 かつては、人々の心を躍らせ、活気に満ちていた紅葉。しかし、その華やかさは束の間のものであり、やがて葉は色あせ、散り落ちていく。この無常観こそが、私を静寂の世界へと誘い込む。

枯葉にみる、万物の循環

 枯葉を眺めていると、自然の摂理を深く感じる。春には芽吹き、夏には緑葉を茂らせ、秋には色づき、そして冬には葉を落とす。この繰り返されるサイクルは、まるで万物の生老病死を象徴しているかのようだ。

そして、この循環の中で、私は「無」の境地を垣間見る。すべてのものは、生と死、有と無を繰り返しながら、永遠に変化し続けている。華やかなものは必ず散り、栄枯盛衰は繰り返される。この真理を悟ったとき、私たちは心の平安を得ることができるのではないだろうか。

藤原定家の和歌にみる、秋の静寂

 藤原定家の和歌「浦の苫屋」は、まさにこの秋の静寂を見事に表現している。

> 浦の苫屋
> 「見渡せば花も紅葉も
> なかりけり
> 浦の苫屋の秋の夕暮れ」

この和歌は、華やかだった花や紅葉も今はどこへやら、静寂な夕暮れの海辺の小屋にただ一人残された寂寥感を歌っている。

しかし、この寂寥感の中に、私は深い安らぎを感じる。それは、すべてのものが過ぎ去り、ただ自分自身と向き合うことができる、静かな心の状態である。

枯葉とタオイズム

枯れ葉の風景に、私はタオイズム的な思想を重ね合わせて考えることがある。タオイズムは、自然の摂理に従い、無為自然に生きることを説く思想である。

枯れ葉は、自然の摂理に従い、その役目を終えれば静かに大地に還る。この姿は、まさに「無為自然」そのものである。

また、タオイズムでは、万物に流れる「道」という力が説かれる。この「道」は、始まりも終わりもない永遠の流れであり、すべての存在は、この「道」の一部として存在している。

枯れ葉もまた、「道」の流れの中に存在する一つの存在である。そして、枯葉が大地に還ることは、新たな生命の誕生へと繋がる。

まとめ

紅葉のシーズンが終わり、枯れ木が立ち並ぶ風景は、華やかさこそないが、その中に深遠な美しさと、自然の摂理を感じることができる。

枯葉を眺め、藤原定家の和歌を読み、タオイズムの思想に触れることで、私たちは自分自身を見つめ直し、心の平安を見つけることができるかもしれない。

そして、この静寂な秋の時を、自分自身の成長の機会として捉え、新たな自分へと生まれ変わることができたら、それは素晴らしいことではないだろうか。

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