「英会話を教える」ということ
新しい生徒さんとレッスンを始めるとき、まず聞く質問がある。
「どうして英語を習いたいんですか?」と。
ある人にとっては、愚問かもしれない。
「今のグローバル社会で英語ができないとやっていけないじゃないか」
そんな声が聞こえてきそうだ。
でも、この質問に対して同じ答え方をした人は、今までにいない。
もちろん、英語が必須の社会になってきたことも英語を習いたい理由の一つだと思うが、それだけじゃない。
「英語を話せるようになって・・・。」その続きに、その人が心底大事にしている美しい夢がある。
「英語を学ぶこと」は手段で、最終目的じゃない。
ある女性は「今度、孫が生まれるが、英語を話せるようになってほしい。そして、自分自身も英語を学んで、孫にとって恥ずかしくないようなおばあちゃんになりたい」と英会話を始められた。
英語を学ぶのは高校を卒業して以来、40年ぶり以上のことだ。
その身を投げ打つような献身さ、お孫さんへの想いを持って、もう1年も英会話を続けている。
その方は、英語に夢を託しているのだ。
お孫さんがいつか、世界へ羽ばたけるように。
日本の英語教育の議論の中でよく耳にするのが、「英語はただの道具だから」という言い方。
この表現に、胸がざわつく。
どうだろう、もし「日本語はただの道具だから」と言われたら。
私は悲しくなると思う。
確かに日本以外で使うことの出来ない「道具」なのかもしれないが、
ここまでに約二千年と、紡がれた歴史がある。
まだ言葉も分からない幼子に、一生懸命、母が、父が、語りかけてきた。
その記憶が紡いできたものがある。
もちろん中学生になって、突然「This is a pen.」が出てきたら、最初は丸暗記するしかないかもしれない。
でも徐々に、その「ことば」の持つ本来の美しさや背景、魅力を知ってほしい。
「ことば」の持つ、本当の姿を知ったときに、ようやく「ことば」はあなたの一部になる。味方になってくれる。
「道具」なのかもしれない。でも「ただの道具」ではないのだ。
知らない世界へあなたを連れていってくれる、素晴らしい道具。
「あなた」という存在を、より広い世界へ伝えてくれる、素晴らしい道具。
だから、もっと自由に使っていい。
広いキャンバスに、自由に絵を描くように。
「This is me!」「私はここにいる!」 と表現するための筆として。
私はもう、その人が不在の表現を伝えることはできない。
もっと生き生きとした、その人を全身全霊で感じられるような表現。
それを待っている。
自己表現のための英語へと。
そんな一種の神聖さを持つ「言語を教える」という行為を、私に託してくれた人たちに、「ありがとう」と伝えたい。
私に優しく語りかけてくれたあの人、じっと耳を傾けて、私の「ことば」が育つのを待ってくれた人へ、溢れんばかりの感謝の気持ちを込めて。