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「もののけ姫考」②アシタカのモデルとは

さて、前回は「もののけ姫は歴史の裏にいた人々の物語である」という話をした。

実際、この話は宮崎駿監督自身が語っているし、数々の解説本や某オタクの頂点系おじさんYouTuberによって世間にも広く膾炙している。
しかし、そのモデルを深く追求した記事は、僕のオンボロなアンテナでは見つけられていない。
そこで、前回の記事では以下の3つの人物のモデル・・・というか象徴するものを考察した。

エボシ・・・日本のメインルートである瀬戸内海とは別に、南海経由で伝割った火縄銃と、それによって戦国時代に活躍した紀伊半島の傭兵軍団

サン・・・古代から中世にかけて、権力者によって山深い地に追いやられたサンカなどの山の民

ジコ坊・・・足利将軍家直轄の暗躍部隊

そして、今回は物語の主人公・アシタカのモデルについて考察する。
先に結論を言えば、このモデルは日本の古代の歴史書、日本書紀・古事記に登場する。もうお察しの方も多いかと思うが、どうかお付き合い願いたい。

なお、今回は構図をわかりやすくするため、エミシの一族とそれ以外の人々を、文化・風習という点においてのみ別の民族として扱う。
歴史的な用語で言えば、蝦夷と大和民族との対比である。
実際には両者に明確な違いはないということは遺伝子の研究などで証明されているが、あくまで物語を捉えるための分け方だということを留意いただければ幸いである。
つまり大和民族=天皇を中心として古墳時代以降日本を統治した集団
エミシ=大和民族に滅ぼされ、あるいは支配された人々
という非常にざっくりとした捉え方である。
ともすれば差別的な捉え方になりかねない区分けなので、注意していただきたい。

アシタカのモデルは、反大和勢力を象徴する長髄彦(ナガスネヒコ)

アシタカは、エミシの隠れ里では「アシタカ彦」と呼ばれる。彦とは、古代日本においては高貴な人物や首長の一族などに用いられた男性の美称である。
そして、アシタカに漢字を当てるとすると安直だが「足(脚)高」となるだろう。これもまた美称である。足が高い(長い)=背が高いという意味だ。「大きな者」あるいは「大いなる者」という含意があるだろう。

少し話は逸れるが「日本」という国名が表記される以前、我々の住むこの列島の人々は、自らを「ワ」と名乗った。これはおそらく「和」や「輪」のような、緩やかな共同体のことを指すのだろうが、中国や朝鮮半島では「倭」という文字が用いられた。これは、蔑称である。「倭」は、「小さい」という意味がある。小さいことは、弱く未熟であるというイメージを、少なくとも古代のアジア人は抱いていた。
こうした時代背景から考えるに、小さい=弱いというイメージならば、逆に大きい=強く美しいというイメージとなることは必然であるし、誤解を恐れずに言えば現代でも基本的には変わっていない。男は大きい方が実際力も強いし、女性にもモテることは世の常である(僕は170センチに満たない小柄な男なので余計そう感じるのだが)。

さて、少しコンプレックスが漏れ出たところで話をアシタカに戻すが、アシタカは作中ではさほど背は高くないように描写される。中肉中背だ。しかし、アシタカという大男を連想させる美称で呼ばれているのは、アシタカがエミシの隠れ里の長となるべき血筋だからである。「大いなる者」という意味を込めて、いつしか自らの一族を率いるべき人物として大いなる期待を込めて名付けられたに違いない。
しかしアシタカは呪いを受け、生きる道を模索するために、あるいは受けた呪いを遠くへ追いやるために、里を出る。
そして、大和民族であろうエボシや、ジコ坊や、自分達と同じく大和民族によって迫害されたであろう山の民であるサンと出会う。
特に、大和民族でありながらその枠組みから外れて自治を守り、真っ当な大和勢力の枠組みの中にいるアサノ公方と戦うエボシとの関係は示唆に富んでいる。
あるいは、大和民族でありながら森に育ち、シシガミという古来の神を守るサンと共闘し、エボシと対峙するというのもまた、同じような構図だ。

共通するのは、アシタカは大和民族ではないにも関わらず、大和民族の手助けをするということである。

VSアサノ公方・・・アシタカ(エミシ)とエボシ(大和民族)
VS
エボシ・・・アシタカ(エミシ)とサン(大和民族)


さて、日本の歴史には、全く同じ意味の名前を持ち、しかもほぼ同じような役回りを演じる人物が登場する。
日本書紀における長髄彦(ナガスネヒコ)である。


長髄彦は大和民族以前の土着の豪族

長髄彦に関する概要は以下のとおりである。
長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する伝承上の人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。神武天皇との戦い(神武東征)に敗れた。『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。
神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命(邇芸速日命)の手によって殺されたとされる。
Wikipediaより参照)

少しややこしいので補足だが、この場合の長髄彦の説明における「大和の指導者」とは、この記事でいうところの大和民族とは異なり、単なる地名である。一般的な歴史的解釈としては、九州から瀬戸内海を通ってきた天皇やその周辺豪族が攻め入ったのが大和(現在の奈良県)という地であり、その地を生死区して住み着き自らを「大和」と名乗ったのである。
つまり、長髄彦は天皇や豪族がやってくる前の大和という土地に住んでいた土着の部族の長だったのである。

ここでキーとなるのが饒速日命(にぎはやひのみこと)という神である。
この饒速日命についてもウィキを参照しよう。

邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)は、日本神話に登場する神。古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。
神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古(神武天皇)が天照大神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
Wikipediaより参照)

長髄彦と饒速日命の関係を簡単にまとめるとこうだ。
①長髄彦が統治する大和に、天照大御神の勅命で神宝を持ち天磐船に乗った饒速日命が降臨する。
②長髄彦はこの神を奉じる(従う)
③天照大御神の子孫である神武天皇が大和に攻め込んでくる。
④饒速日命と長髄彦は抵抗し戦うが、饒速日命と神武天皇が互いの神宝(天羽々矢)を見せ合うと、それが同じ物だったので、饒速日命は神武天皇が天照大御神の子孫だと知り降伏することを決める。
⑤それでもなお戦い続ける長髄彦を饒速日命は殺し、神武天皇に降伏した。

自分を奉じてくれた長髄彦を殺すというなかなかのクズっぷりを見せた饒速日命だが、一族の存亡をかけた戦いだとすれば致し方ない気もする。
これが有名な神武東征の神話だが、重要な点は以下である。

・饒速日命は天照大御神の勢力=大和民族である
・長髄彦は大和民族(天照大御神の勢力)ではない土着の豪族である
・長髄彦は、二人の大和民族の板挟みに遭い、不幸な結末を辿る

長髄彦からすればなんとも理不尽な話である。何せ、はなから同族なのであればそもそも戦わなければいいのだ。しかし、この神話を史実だと仮定すると、要は先にやってきた大和民族が土着の豪族と懇意になり、婚姻なども絡めて共に統治したが、後からきた同じ一族(しかし、おそらく違う派閥であろう)が攻めてきて「俺たちによこせ」と言ってきた。しかし、どうも形勢が悪くなってきたので「元々同じ一族なんだし仲良くしようや」と恭順した、というところであろう。よくある話だ。

長髄彦とアシタカの共通点は多くある

さて、ここでいよいよアシタカ=長髄彦説を語っていこう。
ここでは、わかりやすいようにアシタカの一族の背景も含めて比較する。


アシタカは、今は東北の隠れ里でひっそりと暮らしているが、かつては日本の広範囲に土着していた蝦夷の一族の末裔。
長髄彦は、神武天皇がやってくるまでは大和の地を支配した土着の豪族。


たたら場やシシガミの森でのアシタカは、大和民族であるエボシと対立する、これまた大和民族である侍衆と戦う。
長髄彦は、大和民族である饒速日命と共に、同じ大和民族である神武天皇と戦う。


アシタカは、一度は仲間として迎えられたたたら場で彼らと対立し、致命傷を受ける。
長髄彦は、仲間であり共闘した饒速日命に裏切られ殺される。


アシタカは最終的に大和民族であるエボシのたたら場で暮らし、同化してゆく(エミシの里の長となるべき人物の大和民族化)
長髄彦はすでに大和民族である饒速日命に恭順し同化していた。最終的には殺され一族も滅ぶこととなる。


どちらも義に厚く、武勇に優れている。(特に強弓であるという点が一致)

以上、5点の共通点を挙げた。
これだけ挙げれば、宮崎駿監督がアシタカのモデルとして長髄彦を想像していたというのは、あながち突飛な考察でもないことがお分かりいただけただろう。
さらにこの論を補足するものとして、『消された王朝 尾張氏の正体』(PHP新書 関裕二著)に「長髄彦は、同じくスネが長いと記述される景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)と同一人物で、そのルーツは東海・・・つまり東の部族であり、最も早く大和に進出して古代の旧大和政権と言える王権を建てて前方後円墳を作った(要約)」という説があるが、学術的な通説とは言い難いので、あくまで一説として長髄彦=東の部族=アシタカという考察を捕捉する程度にとどめておこう。

結論。
アシタカのモデルとなったのは、元々大和の地を治めていた長髄彦であり、美称、立場、武勇いずれも共通している、というのが僕の仮説である。
さて、いよいよ次は物語の重要なキーとなるシシガミのモデルについて考察する。これに懲りず次もお付き合いください。

※ちなみにアシタカ=長髄彦という説は僕独自ではなく、すでに考察している方も数名いるので、一つだけリンクさせていただきます。

おわり



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