各人に最適な仕事を労働史の振り返りと共に考える
多くの人は仕事に何らかの不満を持っている。つまらないとかブラックとか。仕事というものについてあまり考えずにとりあえず働いているという人が多いのかもしれない。これもレールに乗っていればなんとなくの人生を送ることができることの弊害なのだろう。
そうしたある種の惰性の中でも生きていけるというのは、なかなかに恵まれていると言えるのかもしれない。まあこれを悩んでいる本人に言ったところで「知らんがな」ということになってしまうのだが。苦悩というのは当人に絶対的なもので他者には決して味わうことができないものである。
仕事というのは本来生きるためにするものであったのだろう。食料を確保し生活の基盤を整えるために、誰しもが実際に手を動かして働く必要があった。狩猟時代なんかは皆がこの営みに参加していた。子育てもここに含まれる。自らの働きが直接誰かのためになっているというのを感じることができた。
だが農耕が始まると徐々に蓄えができるようになる。そうするとまだ以前の収穫があるのだから、毎日のように働く必要もなくなってくる。ここらへんで備蓄と同様に格差というものも出現してくるらしい。
蓄えがあるとそこでの大なり小なりが発生してくる。(こうしたものを他者と比べて悦に浸るというのが人間は大好きである)すると実際に体を動かして働く者とその上に立って彼らがなした恩恵を享受する者というのが出現してくる。
こうした傾向は中世世界では領主と小作人を基礎に持つ封建制として確立していくことになる。尽くした分だけ見返りがあるから下の者も自らの役割を積極的に果たしたのであろう。ここには領主への忠誠心のようなものも大きく機能していたらしい。
そして産業革命の時代がやってくる。資本主義社会の到来である。現代もこの延長線上にあるのは間違いない。資本家が労働者を雇って事業を行う。資本を持つ者が圧倒的に有利というのがこの社会の特徴である。労働者は賃金という形で見返りをもらうことになる。
だがこの体制の下では多くの人たちが働く意味を見失うことになる。サラリーマン的な働き方をしているとこうなるのが特に多い気はする。毎日のルーティンワーク、顔の見えないお客さん、本当に相手のためになっているのかわからないサービスの売り込みなどなど。
これらからは感情的な要素が無視されがちだからであろうか。自分の働きが目に見える形で貢献している感覚を得られないからであろうか。また自分の持って生まれた資質やこれまで積み上げてきた要素を発揮することができないからであろうか。とかく多くの人たちが虚しさを感じている。仕事が社会的な立場を保持するある種の勲章として使われているというのも関係しているのかもしれない。そうしたところからはなかなかに充実感を得るのが難しい。
自分のために働いているのかお客さんのために働いているのか、はたまたそれを外から見ている不特定多数の人達のために働いているのかわからなくなってしまう。始めは自分の見栄のためのつもりだったのが、いつの間にかそれに支配されて自分を生きられなくなるのはなかなかに皮肉ではある。
今の日本においてはこれらにプラスして経済的停滞も関係してくるから厄介である。やった分だけ成果が期待できる中では誰しもモチベーションを維持しやすいというのは事実であろう。目に見える結果が自分に帰ってくればまた頑張ろうと思える。こうしたものがなかなかに味わえないのが現代日本である。
やはり資本主義社会においては持たざる者がさらに困窮に陥り、すでに持っている者がさらにその地位を強固なものにしていくというのが定石であるらしい。そんな中でもやりがいや充実感を持って働くためには何が必要なのであろうか。
やはり王道であるが、自分自身と向き合うというのは欠かせないように思われる。人には得意不得意というものが必ず存在するのだから。アスリートに音楽を作らせてもダメだし、学者に工芸品を作らせてもダメなのである。(もちろん例外はあるが)やっていてこれは自分の役割でない感じに襲われてしまうだろう。
だからこそ自分にあった仕事を選択するという至極真っ当な選択をするのがとても大事になる。ここに社会的な評価とか周りの人への見栄えなんかを持ち出してしまうと得てして支障をきたしてしまうことになる。(こうした自分の才能を活かせるか以外には、達成感を得られるかや働きに見合った報酬と地位の保証が大事になるらしい)
いずれにせよ自分に正直になるのはとても大事である。これは何事にも当てはまるだろう。とりわけ仕事はより良い人生を送る上で、とてつもなく大きな要素であるのは間違いないのだから。