女性社長就任に思うこと
女性、かつCA出身が社長に就任することになった!
との事で、JAL(日本航空)が話題です。
女性のトップは初めて。
さらに、客室乗務員(CA)出身も初めて。
そんな今話題の日本航空ですが、
以前は、こんな内規を定めていたそうです。
今の私たちにとっては「ありえない!」と思う内規ですよね。
と同時に、「昔はこれがデフォルトだったんだろうな」とも容易に想像がつきます。
当時の「常識」は、定年は30歳、結婚したら即退職。
今こんな内規があったら、確実にアウトでしょう。
今の「常識」とはかけ離れています。
そう思うと、「常識」って時代と共に変化するものですね。
当時の「常識」を壊したのが永嶋玉枝さん。
そして就業年齢は段階的に引き上げられて、60歳になりました。
それが1979年。
今から45年前のことです。
私が産まれる前に、こんな大動乱があったとは。
そこから6年後。
1985年。
今回社長に就くことが決まった鳥取美津子さんがJALに入社した年。
1985年と聞いて、私は「あ!」と思いました。
1985年は、男女雇用機会均等法が制定された年だからです。
「男女雇用機会均等法?あー社会で習ったなー」ぐらいに思った人には、ぜひその裏話を知って欲しいです。それはもう、壮大な壮大なドラマがあったから。
その裏話は、私の履歴書で書かれていた赤松良子さんのお話がめちゃくちゃ面白かったので、みなさんにも是非読んでみて欲しいです。
数ある私の履歴書の中でも、トップ5に入る面白さ。
少しご紹介。
こんなお話がたくさん出てくるのです。
この後のエピソードが波乱万丈すぎました。
赤松さんが作った原案は、上司の課長もその内容で了解。しかしこれが日の目を見ることはなく、最終的に通達文は「無効」が「好ましくない」に書き直されました。
でも、赤松さんはそれで終わらなかった。
この後、「ほほー、そう出たか」と思う行動をしたのです。
そして最終的に、東京地裁で画期的な判決が出ました。
このへんは是非本文を読んで欲しいです。
そしてこれが、後の男女雇用機会均等法につながる出来事となりました。
実際に、男女雇用機会均等法の時のエピソードも、目を見張るものがありました。
男女雇用機会均等法は、根回し、味方からの反対、ギリギリの交渉を経てウルトラCで作り上げた法律でした。
私は痛感しました。
「あの時、こうやって女性の権利を必死でもぎとった先輩方がいるのだ。それで今があるのだ。」と。
そしてその1985年、鳥取美津子さんはJALに入社し、このたび社長に就任が決まりました。
女性の雇用条件が、定年は30歳・結婚したら即退職だった時代を経て、
女性の権利を必死でもぎとった赤松良子さんらがいて、
男女雇用機会均等法が成立したのが1985年。
その年に入社した女性が、トップの社長に就くことなったのが2024年。
以前は男女不平等が当たり前だったのが、
数十年単位ではあるけれど、
男女雇用機会均等法が制定されてから30年以上たった今も男女が平等ではないけれど、
少しずつではあるけれど、確実に前進しているなぁ、と。
今回の件、私自身が身を置いている銀行業界のことを思わずにはいられませんでした。
銀行業界も
「女性トップは初めて。」
という世界が、いつか訪れる日がくるのかなぁ、と。
私が銀行に入社してから出産するまでの間、
銀行には女性×子持ち×外回り営業課長という人が、周りには1人もいなかった。(今でこそ、何人かお見掛けするようになりましたが。)
だから出産前は、「出産後のキャリア」をどう進めればいいのか、どうなるのか、とても不安がありました。
JALの社長に就任することになった鳥取美津子さんは、会見でこう語ったそうです。
「自分らしく」
このことを胸に、私もキャリアを頑張っていこう、
そう素直に思える、今回の鳥取美津子さんの社長就任でした。
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