【夫のターン】ゴリラが教えてくれた「偏愛」のススメ
こんばんは、ヒロタアタルです。梅雨入りして湿度高めの毎日、いかがお過ごしですか。
「語学好き」を自認しているため、語学系の本に惹かれがちで、積読にもその方面の書籍が多い。そんな自分の趣向とは違う本をとも思い、手に取ったのが前回紹介した『13歳からのアート思考』だった。語学から離れた路線で、と思い選んだのが、今回紹介する『京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ』(朝日文庫)だ。本のオビには「グローバル時代に一番大事なのは語学力よりも感動力だ!」とあり、「語学から離れる」というぼくの思考と呼応してか、積まれた数ある本の中にあり、つい目があってしまった一冊だ。
著者はタイトルにもあるとおり、現在の京大総長をされている山極寿一さん。総長になられるときに「ゴリラの研究者」であることが話題を呼んでいたが、本書にはそのゴリラ研究の過程で遭遇した経験やそこから得た学びについて、至極具体的に書かれている。端々にハッとさせられる内容が書かれているのだが、とくに印象的だった言葉を拾って紹介しようと思う。
■「おもろい」という発想
東京の出身だった山極さんが、京都大学への進学をし、京大の先輩や学友たちとの学びの中でたびたび触れたのが、この「おもろい!」という発想だったという。京大の学びは、賛否の立場で真っ向から対立するようなものではなく、自分ももちろん主張するが、相手の意見にも耳を傾け、主張を変化させながら、よりよいものにしていくという「対話」のスタイルで展開するものだったそうです。主張と反対のものがぶつかって、高次のものに向かっていくというのはヘーゲルでいう「弁証法」が想起されるが、京大式「対話」はそれとはちょっと違う。対立するのではなく、共同作業によって、さらによいものになっていく。その根底には、「おっ、それ、おもろいやないか」という共感の発想があるという。
ディベートだ、ディスカッションだと、最近では入試でも、就活でも対決させられる場面が多く、それに順応するために「論破」だ「ロジカル」だの、なんだか攻撃的な装備を見にまとおうとすることが多いが、よくよく考えると、この「おもろい!」という共感こそが、いまの時代重要なような気がしてくる
この「おもろい!」という発想では、自分の「おもろい」を突き通すだけではダメで、文化や分野が違う相手にもその「おもろさ」を伝えることが重要であるという。もっというと、「おもろ」なければ、まったく受け入れられないというシビアさがあるという。この発想は、商品開発、サービス開発、もっというと社会を構築する上でも大事なことであるように思われる。資本主義にどっぷり浸っている私などは、どうしても「価値のあり、なし」や「役に立つか、どうか」など実利をベースに発想、判断をしてしまいがちだ。そういう外的な基準やバイアスを一旦脇に置いて、「おもろい!」という感性というか、自分の根本にある「感覚」に立脚して、主張や判断をすることがこれからの世界では重要なんではないかと思わされた。
■『マツコの知らない世界』と「おもろい」
ちょっと違うかもしれないけれど、テレビ番組『マツコの知らない世界』(TBS)に出てくる、「ニッチなものを愛でる人」が極端だが、一例のような気がする。深すぎて、ひいてしまう回もある。その場合、「おもろい!」発想でいくと、残念ながら「おもろさ」発想でいくと、それを他者をまきこむまでの域に達していないということになる。一方で、まったく興味がなかった分野でもひどく惹かれて、翌日におもわず買いに行ってしまうといった行動につながってしまうこともある。あの番組、「マツコ」のマーケティング力をやたらにあがめる節もあるか、ひょっとしたら、登場する趣味人の共感説得力に属する部分も多分にあるのではないか、と思えてきた。
読み進めると、山極先生はさらにヒントをくれた。自分の「おもろい」を他人に語り、そして巻き込むには「自信」が必要だという。そして、その自信を養成するには「精神的な孤独」が欠かせないと述べる。いまの時代、携帯、スマホでいつでも他者とつながれる。しかし、自分の好きなこと、自分が正しいことは自分自身で決定する。まぎれもなく自分が経験したことに立脚した結論にこそ、「自信」が持てるというのだ。あの番組に出てくる趣味人のうち、説得力をもって迫ったくる人たちには、おそらくこの種の「自信」が備わっているのだと思う。
ここまで来て思うのは、これからの時代に必要なのは「偏愛」なのではないかと暫定的な結論を得た。ただし、「好きなことだけすればいい」という一部のビジネス書がなげっぱなしてくるようなものではない。山極先生のいう「精神的な孤独」の中で醸成した、みなぎる自信を帯びた「偏愛」にこそ価値があるのだと思う。
あとがきで山極先生は「恋」を持ち出して締めくくります。他の生き物から見たらバカと思うかもしれないことの例として「恋」をあげ、なにかへの「恋」を諦めないことで、私たちは多くの新しい発見や技術、イノベーションを生み出してきたと。
山極先生でいうところの「ゴリラ」のような恋の対象、ぼくの言葉でいう「偏愛」の対象を見つけられたら、きっとそこからさまざまな道が開けてくるのだろうな、と思う梅雨の宵でありました。