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スリにばっかり怯えて訪れた初海外は、やさしいが溢れてたんだよって話

初海外は2011年。東日本大震災がおこってしまった年だった。

2011年3月11日の記憶は自然の大きな怒りのようなシーンで。ひたすら毎日ニュースを追うのに必死になっていた。

当時デパートには、東京からのお客さまが増えて忙しかった。自粛ムードの中、売り上げはいつもより上がってて。残業しながら、なんで東京の人がたくさん逃げてくるんだろう、福島の人たちはなんとかここに来れないのかって感情的になってしまってた。そんくらい、自分もまわりも言葉になるけど出せない言葉にぎすぎすしてた。

時はたち、その年の9月に初海外にして初イタリアへいくことになる。

楽しみなんてなくて怯えていた。スリに気をつけなきゃだし、日本の態度も問われているから怒られるかもしれない。ちんちくりんだから押し飛ばされるかもしれない。

とにかくビビり倒してた。目があったら最後や!て言い聞かせて飛行機に乗ったのをいまも覚えてる(カバンに鍵つけてたもん...)。

同時に、海外にいく自分は薄情もんだという罪悪感にも挟まれてた。

...でも...ごめんなさい。

9年後のいまもイタリアにいってよかったていいたい。あのとき感じたことや、経験があったからこそ福島と繋がりができたんだとも思ってる。

初めての海外はやさしいが溢れてたんだよ。

「日本は大丈夫?」「旅を楽しんで」「何かあればわたしたちの国にきなさい」そう話かけられたのだ。半年たっても、遠い海の向こうの人が心配していて。だからこそ、エネルギーにも触れられて。ちんちくりんのわたしは大きな海外の人を見上げながら、目があったら最後や!なんて思ってごめんなさいって心の中で謝り倒してた。

そして、ベネチアビエンナーレでは、社会の課題や矛盾を怒りに任せたりしないで、自分の表現で問題提議しているものに沢山触れて。わたしって薄っぺらい人間なんやなぁて...薄々きづいてはいたんやけど...もう逃げ場がなくて恥ずかしかった。

いまは年に2回は海外へ旅できるように頑張ってる。お金なんてない。貯めたら旅。そして、その経験をもってまた働く。

そうやって、ちっちゃいながらも頑張っていたある日、夜行バスで初めて福島に訪れることになった。2011年から7年後のこと。

今では、たくさんの知り合いもいる。だいすきな街。

何回めかの福島で、まだこんな言葉をいう人がいるって泣きながら話てくれた背中に手を添えながら、2度と聞かせたくないから、怒りに任せないでわたしの繋がりかたで頑張っていくんやって思った。

ちっちゃな存在やけど、ビビりやけど、諦めんとこ。








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