「先生には障がいはあるんですか?」と尋ねられたとき
「子どもから『僕には障がいはあるんですか?』『その障がいは治らないんですか?』『先生にも障がいはあるんですか?』と尋ねられたら皆さんはどう返事されますか?」
夏休み中に参加した研修会で、講師の方からそう尋ねられました。
以前に合理的配慮についての記事を書いたことがあります。
そのことも振り返り、僕なりに感じたこと、考えてみたことを書いてみました。
メガネがなかった時代には
幼い頃見たドラえもんの映画で、戦国時代?にタイムスリップした場面で、ダメダメだったのび太のご先祖さまが、眼鏡をかけたことで勇敢な性格でみんなのリーダーになっていくというものがあります(『ドラミちゃん アララ♥少年山賊団!』)
(画像はBande a partより)
あるいはDr.STONEという文明が途絶えた3700年後の石器時代が舞台の漫画では、現代人の多くが持っている近眼は「ボヤボヤ病」という不治の病という立ち位置になります。ド近眼でボヤボヤ病のスイカというキャラクターは役立たずとして描かれます。
(画像はなどなどブロブログより)
メガネが存在しなかった時代には、近視=視覚障がいだったかかもしれません。しかし、スマホの普及によって幼いうちから近視や視力低下が問題になっている現代ですが、近視は視覚障がいにはなりません。
なぜならメガネやコンタクトという道具が普及し、それを使うのが当たり前に受け入れられているからです。
僕自身にも近視があります。メガネをかけなければ、視力は0.2程度。メガネを外せば、駅改札の電光掲示板の文字は見えませんし、教室の後ろから黒板の文字も見えません。視力0.8以下なので自動車の運転もできません(将来的に自動運転が一般的になったら視力の問題は解消されるかもしれませんが)。
メガネが存在しなければ、あるいは「メガネをかけるのはズルい、みんなと同じように裸眼で、見えないながらも頑張って見て、見る力を鍛えないと」なんて言われるなら…、僕は仕事や生活していく上でたくさんの障がいにぶつかるのだろうと思います。
障がいの考え方
障がいを考えるときに、「医学モデル」と「社会モデル」という考え方があります。
医学モデルは、障がいの原因を個人の心身の機能とする考え方です。
(画像はフクシのフより)
医学モデルだと本人ができないこと=障がいとなり、その人の努力で障がいを取り除いていくという考え方になります。
それに対して「社会モデル」は、個人の心身の機能と社会の在り方があっていないことが障がいの原因と考えます。
(画像はフクシのフより)
社会モデルの視点に立つと、障がい(その人が困ること)は社会の仕組みによって変わってくることに気づきます。
それに関連して、誰にとっても使いやすい、わかりやすい仕組みが、ユニバーサルデザインです。
また障がいがある方が生活する中で困難さを感じる部分は社会的な障壁(バリア)と言われます。
物理的な段差だけでなく、周りの人たちの関わりも含めた社会の仕組みが変われば、障がいと言われるものも変わってくるのです。
障がいは周りの環境や社会がつくるもの
以前紹介した『ニューロダイバーシティの教科書』には、翼の生えた人がスタンダードな世界について語られた部分があります。
僕たち自身はそのままで変わらなくても、「翼が生えた人がスタンダードな世界」にいけば、きっとみんなが空を飛べるために建物の玄関は2階以上になるでしょうし、交通機関も今ほど発達しないでしょう。そうなると僕は他の翼が生えた人と同じようにスムーズには移動できない飛行不全という障がい者になってしまうかもしれません。「2階の玄関に上がるのは大変だから…」なんて言うと「飛行不全者のために地上1階部分に出入り口を作るなんて非効率だ!」なんて非難の声で炎上するかもしれません。
また『ASD的考え方 要は少数派ですよ編』にはASDの方が多数派の国があったらという設定の小説「アスペの国の定型族」が掲載されています。
それはさながら巨人の国や小人の国を全くの異邦人として巡るガリバー旅行記のようです。
そんな話を紹介して僕がなにを言いたいのかというと、「社会の制度やルール、常識はその社会の多数派によって決められている」ということです。
H・G・ウェルズの『盲人国』という小説には全く目が見えない人しかいない国が描かれます。当たり前の話ですが、盲人しかいない国で暮らす視覚障がい者には、生活していく上での障がいはありません。なぜなら「見えないこと」を前提に社会が設計されているからです。
それと同じように、いま僕たちが暮らすこの日本の社会では、見えて、聞こえて、日本語がわかって、五体満足で自分の足で移動できて、定型発達の人が多数派です。
そんな多数派の人を基準に今の日本の社会は設計されてきました。だから、そこから外れると、見えない、聞こえない、歩けない状態であることが困ったこと(=障がい)になってしまうのです。
逆に言えば、ユニバーサルデザインに代表されるように、「世の中には多様な人がいて、誰もが使いやすいように社会を設計する」という考え方が広がれば、多様な人の状態は変わらなくても、障がいは障がいでなくなるかもしれません。
もちろん車いすやベビーカーと点字ブロックのように誰もが使いやすいデザインのいうのは現実にはなかなか難しいですし、今から全ての施設にエレベーターを設置するのは費用的に難しいのかもしれません。聴覚障がいで車いすの方とグアムに旅行したときに、何も言わずに車いすを運ぶのを手伝ってくれたマッチョなお兄さんのことを思い出すと「心のバリアフリー」でケアできる部分も大きいのではとも思いますが。
僕自身の答え
冒頭にある問いに対して、研修会場では「隣の人と話し合ってみてください」と促されました。
僕自身はメガネがなかったら僕も視覚障がい者ですねという話もしました。
メガネをつけた状態でも全く言葉の通じない外国に一人で取り残されたら、僕自身に多くの「障がい」が降りかかるでしょうねという話もしました。
仕事柄、見えない子が点字や白杖歩行を、聞こえない子が手話や口話をというようなスキルを習得したり、あるいは便利な道具やライフハックを使ったりすることで、困難がなくなるかもしれないという話をしました。
その子の今の状態は変わらないかもしれません。もしくは医学の進歩で変わる部分もあるのかもしれません。
でも障がいの有無は、溝のように断然されているものではないのだと思います。大半の人が文字を読めない時代にはディスレクシア(読字障がい)の大半に困難さがなかったように、「障がい」は時代や文化など、社会の在り方によって変わるものなのですから。
僕も含めて、誰しもいる場所によっては障がい(=困難)に直面する。でも、社会が変われば、障がいは障がいではなくなる。
僕が問いかけた子に返すのは、そんな内容になるのでしょうか。
平等ではなく特別扱いする学校
その研修会の講師の先生は小学校の校長先生もされていて全校集会でよくある平等と公正のイラストを提示し、「この学校は平等ではなく特別扱いをする学校です」と話したそうです。
(画像はDeloitte.より)
「なぜならみんなはそれぞれ違って同じではないから。絵を見て、背の低い子だけ見えなくて困るのはおかしいよね。だから見えるために特別扱いをします。みなさんも必要だったら遠慮せずにどんどん言ってくださいね」そんな内容でした。
必要な子に必要な配慮や支援を。
多様な子が集まる学校。だから、そこでは「平等(=みんなに同じものを提供する)」という考え方が根強くある。多様な子が集まり、それぞれに違った支援をという支援学校でも、その「平等」の原則は強い。
でも、多様な子が集まるという前提に立つのなら。多様な関わり、配慮や支援があるべきではないのだろうか。そんなことを考えさせられました。
まとめ
研修会の中でこんな話題がありました。
教員を目指す教え子が同窓会に参加してきたというので、「支援学級の子たちにも来ていた?声をかけたの?」と尋ねると教え子が黙ってしまったというものです。
僕自身も盲学校で働きだしてから、街中にいる白い杖を持った人に気づくようになりました。
少数派の多様な人がいるというのは当たり前のことなのですが、自分が多数派の側にいるとなかなか気付けないものでもあります。
研修会で問われたとき、自分自身が試されているように感じました。拙い文章ですが、自分が感じたこと、思ったことをなんらかの形でまとめたい。そう思ってこの記事を書いてみました。
当たり前に感じる社会の仕組みやルール、その当たり前が実は誰かの困難さになっているのかもしれない。
僕自身が若い頃は気づいていなかったそんな視点や、これからの社会のあるべき姿について考えるきっかけになれば…なんて壮大なことを言ってしまいましたが、この記事が読者の方がそんなことを考えるきっかけになれば幸いです。
参考にしたサイト
1.日本財団ジャーナル「「障害の社会モデル」という考え方が“無意識の差別”に気付かせ、より良い社会へと導く」
2.フクシのフ「「障害」について社会モデルと医学モデル(個人モデル)から考える」
3.政府広報オンライン「知っていますか?街の中のバリアフリーと「心のバリアフリー」」
表紙の画像はMedia116より引用しました。