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書籍紹介『ASD的考え方 要は少数派ですよ編』

『ASD的考え方 要は少数派ですよ編(あずさ)』という本の紹介です。

著者のあずささんは、精神科医として勤務されているASD(自閉スペクトラム症)当事者の方です。

精神科医というASDの専門家、またASDの当事者の一視点として語られる言葉には僕自身もとても納得させられます。

ASDはしばしば、批判の対象となります。迷惑をかけたり失礼な態度をとったりしているときがある、それはは否定しません。しかし、その批判の一部は、単に少数派について違和感を持った多数派が、違和感のゆえに攻撃しているだけのように思えることがあるのです。 ASDが単に「異なる」というのが、わたしの実感には沿います。生産的かつ公平であるとも思います。

自己紹介(まえがき)より

中でもASD(アスペルガー症候群の略、アスペと表記)がほぼ一〇〇%を占める国に、少数民族である定型の人たち(定型族)が移住してきたのだけれども、アスペたちにはこの「定形族」が理解できない。そこで、研究者が観察を行いレポートを作成したという設定の小説『アスペの国の定型族』には「障がいってなんだろう?」「社会のルールって本当に論理的なのだろうか?」と考えさせられます。

以下、気になった部分を紹介します。

(1)定形族における他者理解
 定形族は、「同族間においては」「直観」で相手を「理解」することができる。
 ここで注目すべきは、彼らのいう直観は、同族間においてのみ働くという事実である。すなわち、彼らとは異質であるわれわれに対しては、彼らの直観は無力である。また、彼らのいう「理解」も、われわれの考える理解とは異なる。相手の感情および希望を読み取るという意味であって、情報・思考・未来予測や行動予定の共有ではない。
……
 この直観の正体については、同族間で培われた非言語的なパターン認識であると推測される。定型族はこのパターン認識を「空気を読む」と表現する。その「空気」はすなわちパターン認識であるというわれわれの解釈を定型族に示したところ、これに同意した者は少数にとどまった。

アスペの国の定型族より

定型発達の場合、生後間もない時期から周囲の人の表情に注目する能力が備わっています。一方、ASDでは相手の表情に注目しない(というかヒトとモノを同じ尺度で見ているのではないかという説があります)という特性故に、「空気が読めない」「相手の感情がわからない(共感できない)」と言われることがしばしばあります。

でも、「共感」ってなんなのか?も問われるとその答えに窮してしまいます。空気というのも、それぞれのコミュニティによって変わるぼんやりしたもので、定型発達のヒトが読み取れるのは自分と近しい集団だけです。異国や他文化、それにASDの方の思考パターンや感情がわからない。それなのに、ASDの方々へ「共感できない」とレッテルを貼るのはいかがなものでしょうか、なんて考えてしまいます。

(2)定型族と彼らの故郷たる閉鎖的コミュニティ
 定型族には、われわれには理解しがたい思考/行動が数多く認められる。
……
 とりわけ目立つ信念としては、多数派こそが正しいというものがある。当然ながら、多数派か少数派かという問題と正誤の間には、論理的には互いに関係がない。

アスペの国の定型族より

僕たちは論理的な根拠を説明できない「普通」や「当たり前」、「常識」に多大なる影響を受けています。

時には暗黙の、明文化されていないルールやマナーを理解できないASDの方々へ「非常識」や「空気が読めない」と批判していることもあります。

でも考えてみれば、常識とは「社会的に当たり前と考えられること、大多数の人が知っていること」なのです。当たり前の話ですが、その社会の大多数が変われば常識はいとも容易く変化します。だって過去の歴史や海外の文化、慣習を見てみてください。普遍的な常識なんて見つけることの方が難しいのかもしれません。

それに特に日本には聖徳太子の「和をもって貴しとなす。忤うること無きを宗とせよ。」以来の伝統である「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のような多数派がルールになる、長いものにまかれろという考え方が根強くある。

でも、それに論理的根拠があるのかというと…

そうなると僕たちが拠り所にしている「普通」や「常識」って一体なんなのかという話になってくる。

(4)定形族における人間観
 定形族は、相手に敵意を想定してコミュニケーションを始めると推定される。
 たとえば、重要な話題についての議論を始める前に、その話題とまったく無関係な「軽い」話をすることが礼儀とされている。当然ながら本来の話題は遅れて始まり、意思決定にもよけいな時間がかかる。この無駄について気にする者は非常に少ない。
 その「軽い」話題には、天気の話がしばしば選ばれる。しかし、定型族のほとんどは、天気に特に関心はないという。関心がないにも関わらず天気について話す理由は、共通の話題であるからとのことであった。共通の話題というなら業務についての話題が最適である。実際わが国においては目下取り組んでいる業務や業務関連の自らの達成などを語ることは歓迎される。しかしそれらが採用されることはほぼなく、このことから、定型族は自らの業務に興味関心が少ないのではないかという推測も成り立つ。

アスペの国の定型族より

これには笑わされてしまいました。生産性を考えるなら、天気の話題なんてもちろん不要です。いわゆる世間話についても、話題についていけないとそのコミュニティから排除される危険性があるのだけれど…社会的な習慣として、共通の話題を話すというステップを踏んでから安心できる、コミュニティのメンバーとして受け入れるということはあります。でも、それは多数派のルールであって、そういった世間話や噂話、井戸端会議や飲み会が苦手な人もいます。

コロナ禍でリモートワークが始まり、直接顔を合わせての仕事や飲みニュケーションがなくなって、楽になった人としんどくなった人の差を思い出しました。井戸端会議や飲み会が潤滑油になる人もいれば、そうでない人もいるのです。

本の中でも紹介されている芥川龍之介の「道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである」という言葉にあるように、社会の多数派に合わせて慣習的につくられたルールやマナーといったものはたくさんあります。

 多数派に合わせざるを得ないのはしかたがないのですけれど、それは、 ASDの人たちが劣っているからではなく、数の問題であるととらえることはできないかしら。……
 ASDの人たちが困っている理由の一部は、たんに少数派だということだよね、というのは、わたしが ASDだからそう思うだけでしょうか?

多数派少数派の優劣より

障がいとは個人ではなく社会や環境によって生じるというICFの考え方が出て久しいですね。

当たり前のことなのですが、今の社会は定型発達とよばれる多数派の人たちに合わせて設計されています。多数派の人のやり方や考え方=常識とされてしまうこの世の中ではそのことが見えにくくなっているのですが…。

この本にある「アスペの国の定型族」や、暗闇の中の世界を体験する「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」、二足歩行者が少数派の世界を体験できる「バリアフルレストラン」などを通して今の社会を違く角度から眺めてみるとそのことに気づかされます。

そして定型発達というフィルターに気づくと、ASDの方の言動の背景が浮かんできます。もう一冊の『ASD的考え方 そこに悪意はない編』で紹介されていますが、そのフィルターに気づかずにASDの方の行動を自分たちの考え方で判断すると「悪意がある」と解釈してしまい、お互いに苦しい状況になりかねません。

 べつに、そこにいてくれたってそれはかまわない
 それだけで、いいんですけどね。

そこにいてもかまわなければ(あとがき)より

あとがきにある、あずささんのこの言葉にさまざまな想いがこめられているように感じます。

以前、『ニューロダイバーシティの教科書』という本を紹介した記事でも書きましたが、長年支援の現場で働いてきたからか、あるいは僕自身にASD特性の傾向があるからか、支援学校で関わる子どもたちの行動の背景をなんとなく推測したり、理解したり、言語化できるようになりました。

インクルーシブとか共生社会とかいろいろ言われますが、当たり前のように人は多様です。自分と自分に似た人たちのコミュニティで過ごす間は見えないかもしれませんが、自分と異なる人が、それはもうたくさんいます。

「違いを受け入れる」と書くと定型発達が多数派で受け入れてやっているという雰囲気になってしまいそうですが…人は自分と違うものだし、自分も人とは違うもの。そして、自分と価値観や考え方の異なる人もたくさんいる。正直合わない人もいる。それが社会だ。そして、自分も含めていろんな人がいていいんだ。

そんな当たり前のことが当たり前になれば、あずささんの言葉も必要なくなるのでしょうか。

当たり前ではない当たり前について考えさせられる本でした。

記事中でも紹介しました『ASD的考え方 そこに悪意はない編』もあります。こちらもおすすめです。

あずささんX(旧Twitter)とされているので、よければそちらも覗いてみてはいかがでしょうか。



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用した本の表紙てす。