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書籍紹介『ASD的考え方 そこに悪意はない編』

『ASD的考え方 そこに悪意はない編(あずさ)』という本の紹介です。

著者のあずささんは、精神科医として勤務されているASD(自閉スペクトラム症)当事者の方です。以前も別の著作を紹介しました。

悪意について

この本ではASD当事者が直面する悪意について語られます。

 悪意があるとしか思えない、と言われたことがあります。悪意などないです、と答えて事態が悪化したこともあります。悪意は受け取る側が決めるもので、受け取る側があると判断したら、そこに悪意は存在すると認めるしかないと言われてふるえあがったこともあります。わたしが悪意を持つとして、その悪意を持つかどうかの決定権はわたしにあるはずなのに、他人がその有無を決定するというのはどういうことだろう、混乱しました。この混乱が、いっときツイッターから離れた理由の一つでした。
 しかし、ないものはないのです。
 存在しない悪意を消しても、問題はそこに残り続けます。再発は予防したいですし、もうちょっというと、再発しようのないシステムを作りたいですよね。

まえがき より

この冒頭の文章を読んでいて勤務先の学校で目にしたことのある場面を思い出します。

「なんで何回も同じことをするんだ!ふざけているのか!」
「昨日も一昨日も言ったよね。わざとやっているの?」
「なんで笑っているんだ!馬鹿にしているのか?!」

何回も同じことをするのは、どうすればいいのかがわかっていないからかもしれません。もっと言うなら、こちらが相手がわかるような支援の手立てを提供できていないのが原因かもしれません。

「何度言ったらわかるの?」では、逆に問いますがそう言うあなたは何度言えば相手に伝わる、相手がわかると思っているのでしょうか?さらに付け加えるなら、言葉で伝えるだけで変わると思っているのでしょうか?

注意や指導された場面で笑ってしまう子。もしかしたらそんなときにどういう表情をすればいいのかがわかっていないのかもしれません。どうしたらいいのかわからないから、とりあえず笑っているのかもしれません。

もっと言えば、表面上しおらしい態度を取っているイコール反省しているとは限らないはずです。でも世間一般の「こうあるべき」から外れている場合、わざとやっている、ふざけている、悪意があると思われてしまうのかもしれません。

……以前、ミスがあってインシデントレポートを書きました。わたしが不注意気味なのは事実として、システム的にこれを改善すればミスは事前に防げる、みたいな対策を箇条書きにして提出したんです。「言ってることはわかるけど角が立つからとりあえず今後気をつけますとか書いとけ」と言われました。  「もうしません」が成り立つのは、「わざと」やったときだけではなかろうか、と思ったりします。わざとじゃないことって、「もうしません」って誓ったら防げる……といいのですけれど、防げないと思います。もうしません、の問題は、目的が許してもらうことなのか再発予防なのか、というところにも関わっていそうな気がする。許してもらうことが目的であれば「もうしません」という定型文を正しく言えればいい。目的が再発予防であれば「もうしません」では不十分、というか何も解決しない。悪意でわるいことを引き起こしておいて、「もうしません」とのコメントだけで許してもらおうと画策するなんてことも、ありそうですよね。いじめとかでこういう場面がありそうな気がします。

ごめんなさい、もうしません より 

悪意があるという批判は、問題の事件が悪意によって引き起こされたからという判断の上に成り立ちます。これは裏を返せば、問題の事件は悪意がなければ怒らなかったということになります。しかしながら、悪意がなければ悪い事態はいっさい起こらない、というのはさすがに幻想でしょう。

悪意さえなければできるはず、なのか より

悪意があるという前提に立つと、悪意がなくなれば問題はなくなるという公式が成り立つように考えてしまいます。

というかその人にとって想定外のことだと、「なんで?わざとやっているの?」と考えてしまうのかもしれません。「自分だったらそうするはずがないから、きっと悪意があるに違いない」と考えてしまうのかもしれません。人の心は目には見えないし音にも聞こえないのに。

ここでも多数派の理論が働いているような気もします。

自己中心的とか悪意とかの問題は、多数派の人が「その行動をとるということは、自分だったらこういう意図があってのことだ」という、「自分だったら」の無邪気な仮定・推定で他人を批判している、でまとめられるように思います。

自分だったらという仮定は無邪気にすぎる より

でも悪意だけが原因なのでしょうか?

ASDのわたしにとって、悪意は理解しづらい感情です。そこまで他人に関心がないというのが正直なところです。悪意がないというのは、文字通り悪意がないというだけの話であり、減刑嘆願ではありません。罰には報復と再発予防という二つの目的があります。わるい事態を引き起こした人たちについては、意図に関わらずその行動に応じた罰は必要であると考えます。悪意などのわるい意図があった場合には、意図についての矯正は必要かもしれません。しかしながら、悪意などのわるい意図がないのに問題を起こしてしまう場合もあります。 ASDのわたしの場合、多数派の人から見ると意外なところでつまづくことが多いです。つまづきについては、問題を起こさないための努力や支援が必要でしょう。

存在しない悪意を消しても問題は解決しない より

あずささんの語るようにこの世の全ての問題は悪意で片付けられるものではないはずです。「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があるように。

問題行動と言われる子どもたちの行動の背景にあるのは悪意ではなく、「未学習」と「誤学習」だと僕は考えます。もちろん子どもたち一人ひとりの経験や特性、環境なども大きく影響しています。

「未学習」と「誤学習」

「未学習」というのは、文字通りそれぞれの場面で具体的にどう行動すべきなのか、なぜそう行動すべきなのかを身につけていないということです。

この世の中には、明文化された法律のようなものから暗黙のマナー、ローカルで独自なものまで、様々なルールが存在します。多数派の人たちは、そんなルールを当たり前のことと受け入れて行動します。子どもの頃から「この場面ではこうすべきだ」と教えられてきます。特に日本では周りの様子を観察し、空気を読むことが推奨される傾向にあります。

発達障がいのある人にとって、特に暗黙のマナーのような明文化されていないルールを認識するのは苦手なことがあります。特に自分とは異なる他者の感情が関わる場合は厄介です。ルール自体が合理的でないからする必要がないと考える場合もあるでしょう。

ルールについて考えるとき、僕はある研修会で聞いた言葉を思い出します。

トイレで排泄する生き物は人間だけですからね。私たちの思う当たり前のルールと、生物的な本能と同じではないんですよ。

人は生来的に世の中のルールを会得していくのではなく、教え込まれて身につけていきます。

だから子どもたちが問題行動を起こす背景には、「未学習」、つまりその場面でどう行動するのが適切なのかをまだ身につけていないからではないかと考えます。

そうすれば子どもがわかるかたちで伝え、どうやってそのやり方を身につけていけばいいかという具体な対策が見えてきます。

「誤学習」とは、間違った行動を正しい行動だと誤って学習してしまうことです。

例えばこんなケースがあります。

  • 算数のプリントの問題がわからないから教室を飛び出す→すると先生に注意されたから問題を解かなくてよくなったので、わからない問題が出るたびに教室を飛び出してしまう。

  • 友だちとの関わり方がわからず、イタズラしてしまう。イタズラをしたら「やめて!」とこちらを向いてくれるので、何度もイタズラを繰り返してしまう。

これまでの経験から「この行動をすれば◯◯が達成できる」とその子が理解しているのかもしれません。

子どもたちの問題行動の背景には「アレやコレが欲しい」「アレやコレをしたくない」「ぼく/わたしを見てほしい、かまってほしい」「できない/わからない」「イライラが止まらない」といった見えない、聞こえない想いが隠れていることが少なくありません。

悪意を想定せずに具体的な対策を考えたほうが、再発は予防しやすいです。

悪意があってもなくても再発予防 より

だとしたら悪意を責めるのではなく、その子にどうアプローチすればいいのかを考えることが、近道であることに気づくはずです。

環境を整える

あずさんの語る再発防止、同じことが起こらないようにどうすればいいのかを考えることも大切です。

忘れ物を繰り返してしまうならどうすればいいでしょうか?

  • 後回しにするとすぐに忘れるので先に用意する済ませる。

  • 持ち物チェックリストでもれがないかを確認する。

  • スマホのリマインダーや手の甲にメモする。

  • 後で確認できるようにメールなどの文章にして送る。

  • 思い出すようにアラームをセットする。部屋や玄関に目立つ大きな貼り紙をする。

  • 忘れてもいいように職場用、学校用、自宅用など何セットも用意しておく。

  • 忘れてはいけないものは自分で持ち帰らない。誰かに任せる。

極端なアイデアもありますが、「頑張る」という個人の努力ではなく、環境を変える工夫をすることで対処しようというものです。

「努力よりも工夫を」というのは僕の好きな言葉ですが、いろいろなライフハックを検索してみても面白いかもしれませんよ。

まとめ

職場で子どもたちの困った行動について話しているときに、「みんな悪気がある訳じゃないんだよね」「子どもたちの困った行動の原因は、突き詰めれば未学習か誤学習だよね」という話題になりました。そのときぼんやりとこの本のことを思い浮かべていました。

大学でガイドヘルパーと障がい児学童のアルバイトを始めてからもう20年。職場で「なんでそうなるの?」と話す同僚に、「もしかしたら◯◯だからかもしれませんね。こうしてみたらいいかもしれませんね」なんて返す立場になってきました。なんとなく感覚的にその行動の背景が推測できるようになってきました。

「わざとやってるの」「なんでできないの」なんて言われがちな子たちに対して、「どうすればいいのかなぁ」とああでもない、こうでもないと考えていくためにも、その子だけのせいにしない関わり方がもっともっと広まればなぁと思います。やり方や環境、通るルートを変えれば、案外なんとかなるものです。

ついでに、一人でなんでもかんでもできなければ自立できないみたいな風潮もなくなればいいですね。

そんな考え方のヒントになる本です。よければ手に取ってみてください。


参考にしたサイト

1.フクシのフ「発達に障害がある子どもの学び 未学習・誤学習について」

2.ハッピーテラス「発達障害の子どもの「誤学習」|原因と対策を紹介」

3.発達理解・発達支援・ブログ「【二次障害への対応】誤学習と未学習を通して考える」



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用した本の表紙です。