逃げる=「負け」なのか③
何気ないお寺の格言いじりのつもりが、
3部作になってしまった
②では、人生の中で、「逃げてもいいよ」と私が言えることと、言えないことがある…という話までさせてもらった
最後となる今日は「逃げてもいいよ」と言わない
ことについて話したい
先に結論をいうと、それはつまり、愛情だ
ひとつ、昔話をさせてもらう
高校生の私は立派なボッチだった
学校にいると自分の声を忘れてしまうほど会話をする機会がないほどだ
スクールカースト圏外の存在(存在とも言えるわからないくらい幽霊)の暗黒のティーンエイジを過ごしていたと胸を張れる
余談だが、体育の時間で2人1組が組めずに、1人で馬跳びしたことはこれからも忘れない
嘘だろって思うだろうけど、本気でやれば人間できるんだぜっ…!
流石に30歳になった自分にとっては笑い話だ
しかし、17歳の私にはあまりにもきついものだった(自分が悪いのだろうけど)
学校に行きたくないと言うと、母は責めることなく休ませてくれた
でも、絶対連続では休ませてくれなかった
1日休んで、次の日は私を必ずいつもどおり朝起こしてきた
車に私の荷物とお弁当を詰め込み、エンジンをかけていつまでも待っている
根負けした私は制服に着替えて外に出ざるを得ない
母は自分の仕事に行く前に、私を車に乗せて学校の近くのスーパーまで送ってくれた
車内は無言で、もちろんスーパーの駐車場でも無言で、私が出ていくまで、無言
私が観念してドアを開けると、いってらっしゃいとだけ言いのこして、車は走り出す
なんで余計なことをするのだろう
黙って休ませた方が自分だって楽じゃないか
私はずっとありがた迷惑と思っていたのだ
卒業式後、校門を出ると
離れた場所に見慣れた母の車が見えた
ドアを開けると
「おかえり よく頑張ったね」と母が言った
泣きそうになった
嘘、涙を恥ずかしくて隠した気がする
その時の私は
・逃げずにやり切ったという達成感
・今後、苦しいことがあっても乗り切れるという自信
・心から母への感謝の気持ち
たくさんの感情が溢れていたのだと思う
ちゃんと、ありがとうと伝えられたのか覚えていない
逃げてしまったら感じられなかった18歳の私だけの大切な感情だったと今になって感じる
……
逃げた先が、行き止まりになるとは限らない
けれど、その時逃げなかったからこそ得られる、その時にしか得られないものがあると思う
そして、「逃げていいよ」と相手に求められるままを言ってあげるのは簡単だ
相手も楽になるし、自分も楽だ
そして、本当にその一言で救われることもあるだろう
ただ、ここぞというときに「逃げないで、一緒に頑張ろう」
というのも正しいと思うのだ
嫌われようが、鬱陶しがられようが、その人の人生を考えた時に、共に苦労の道を選ぶことは
愛がなければできないこと
相手の人生に責任を持った決意ではないかと思う
「逃げてもいいよ」と言えること
「逃げてもいいよ」と言えないこと
頑張れるラインも辛いラインも人によって違うから線引きはできない
辛いことから逃げる・逃げない問題には正解がないのではないかと結論づけたい
今の「逃げていいよ」風潮も私はいいなと思う
でも、「逃げないで」といってくれる存在もありがたいではないか
ただ、どちらにせよ、生きている限り
「行き止まり」はない
この格言は怖がらせ、私たちを奮い立たせるようオーバーに書いたのだろう
これも、愛かもね
こんな寒い日に、長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました