どうして卒業式はあんなに厳粛なのか
学校行事は様々あります。運動会や作品展から始まり、健康診断だって行事に数えられています。コロナ禍を経て学校行事は縮減方向になる学校もあれば、コロナ禍の反動からか余計に増やしている学校もあるとか無いとか。
そんな中でも、「儀式的行事」としての卒業式は、他の行事を圧倒するほどの「厳粛さ」が求められます。この「異様な厳粛さ」には驚かれる先生も多いことでしょう。しかし一回経験すれば、多くの先生は「卒業式はそういうものである」と、その異様な厳粛さも受け入れてしまうものです。僕自身がそうでした。こうして「学校の当たり前」は受け継がれていくのですね。
行事自体の持つ「非日常性」には、高い教育効果があることは、現場にいる者としては否定できません。確かに「行事の成功」というゴールに向けて学級や学年などの「集団が一つ」になる様子は何度も見てきました。
例えば、運動会における「演技種目」は典型でしょう。一ヶ月間かけて、ほぼ毎日「集団行動」や「ダンス」の練習をするわけですから、そりゃあ子どもたちの動きは見違えるほどに「変化」します。学校現場では、この「変化量」を持って「指導力」とみなす傾向がありますので、意欲的な先生ほど過密な練習スケジュールで、短期間における「変化」を子どもたちに強要してしまいがちです。
一時期話題になった、組み立て体操についても同様の指摘が成り立つでしょう。毎年高くなる人間ピラミッドの要因は、年度を超えた「教師間の指導力バトル」という要素が全くなかったと言える教師はいないと思いますし、何より僕自身が高学年担任を任されるたびにそれを強く感じていました。運動会自体は、教員、児童、保護者、地域住民などへの「お披露目」という側面もありますから、上記の意識はなお高まります。
卒業式も同様です。こちらも練習期間を一ヶ月近く設定している学校が多いことから、運動会と並んで「練習量の多い学校行事」として知られています。
これは10年以上も前の話ですが、当時の勤務校では「毎年、長時間の練習と極度の緊張感により失神する児童がいる」というのがその学校の「武勇伝」の如く語られていました。その教師の話ぶりからは「そこまで緊張させる空間を作ることが指導力である」という教師自身のイデオロギーを感じ取ったことは言うまでもありません。
運動会と異なり、卒業式は「儀式的行事」です。そういえば、現任校のある教員は、普段は短パンとスポーツユニフォームで仕事をしているのですが、「儀式的行事の日だけ」は「スーツ姿」になるというポリシーを持っています。同様のポリシーを持つ方を複数名知っていることから、これは教員間に受け継がれたある種の伝統なのでしょう。
では、どうして儀式的行事である「卒業式」には、ここまで「厳粛さ」が求められるのでしょう。それを戦前の国家主義体制構築に多大なる貢献をした学校という装置から考えていきたいと思います。
戦前期の学校教育は、国家主義という思想を国民に植え付けるための装置でした。そこには「教育勅語」と「御真影(天皇と皇后の写真)」があり、それらが丁重に保存されている「奉安殿」は、登校してきた児童が最敬礼をしてから教室へ向かったそうです。
戦時中には、この「御真影」は最早ただの写真ではなく、それこそ「命よりも大事なもの」とされており、戦時中の防災指針にも「児童生徒」よりも非難の優先順位が上位に置かれていたという資料も残っています。戦前の学校は木造校舎が多く、火災などが発生すれば、御真影を守るために、校長が火の中に飛び込んでそのまま殉死したという記録も残っています。
「教育勅語」は、視写や暗唱や暗写が求められ、その内容についての解説は校長や教師が儀式ごとに行っていました。教育勅語の内容自体は、天皇から臣民への言葉であり、天皇体制を永遠に続けていくという国家主義の思想内容が述べられているわけですから、これは御真影と相まって、国家主義的イデオロギーは子どもたちに注入されていったことも頷けます。
学校教育における儀式は明治の学制以降も行われてきましたが、何度かその内容について規定が加えられていきます。それを、教育史研究者である小野雅章氏の『教育勅語と御真影』を参照しつつ、検討していきましょう。なぜなら、そこに現代にも通じる「卒業式はどうしてあんなに厳粛か」の答えになりそうな部分が存在しているからです。
まず、小野氏によれば、教育勅語発布前に出された第二次小学校令(1890年)により、祝日などには学校儀式を挙行することは規定されていたそうですが、その内容については未整備だったことから、文部省が改めて制定したものが「小学校祝日大祭日儀式規定(1891年)」だそうです。その内容は概ね以下の通りだそうです。
これを見ると、現代に通じる部分が感じられます。例えば、「儀式当日には、生徒に茶菓や絵画を配布することは可とする」などは、現代風に言えば「紅白まんじゅう」と「証書ホルダー」でしょうか。学校行事で「まんじゅう」がもらえるというのは、もしかしたら地域差があるかも知れませんが、僕の地域では恒例でした。しかも、それは地域の和菓子屋さんに注文するもので、なかなか高級な代物です。「証書ホルダー」というのも、これまた地域差がありそうですが、筒みたいタイプもあれば、大学の卒業証書を入れるようなタイプもあります。まんじゅうにしろ、ホルダーにしろ、それらの経費は「PTA会費」で賄うことが多く、「PTA未加入世帯の児童問題」というのもチラホラ聞いたことがあります。
儀式内容については、「御真影への最敬礼」は、現代だと「国旗への敬礼」となります。小学生からすれば、校長先生は一体、何に向かって敬礼をしているのかわからないでしょう。国旗に敬礼をする人というのは、学校儀式の中でも卒業式ぐらいでしかお目ににかかれません。
「校長訓話」は現代でもありますし、「唱歌の斉唱」も「国歌」や「校歌」を歌うことでお馴染みです。「市町村長や学事関係の職員の参列」も「来賓」として、現代にも通じています。地域出身の議員や地域の民生委員などが来ることが多いです。コロナ禍を経て、この辺りは縮小された学校も多いのではないでしょうか。
こうして見てみると、1891年という、今から130年前に制定された規則が、現代の学校儀式にも深く根付いていることを確認することができます。そして、それは儀式内容の「教育勅語の奉読」や「教育勅語に関する訓話」にあるように、国家主義体制の土台となる思想を形成する装置としての役割を担わされていたという歴史的側面も見逃せません。
こうして、儀式内容などは明確になったのですが、儀式での「最敬礼」の方法や儀式用唱歌の具体的な提示、教育勅語の「奉読」法などは、やはり未整備でした。これら儀式の細部が未整備のままだと儀式における「荘厳さ」が失われてしまい、天皇制強化には逆効果になる恐れもあったことから、文部省はそこにも手をつけることになります。
例えば、最敬礼については以下のような方法が文部省から示されたと小野氏は紹介します。
「帽子を脱いで体の上部を前に傾け、頭を下げて手を膝に当てて敬意を示すものとする。ただし、女性が洋装の場合は帽子を脱ぐ必要はない」
現代の卒業式においても、これらは受け継がれています。例えば「証書授与」の方法については、各校で厳密に定められています。どれくらい厳密かと言えば、6年生の担任になったら、前年度の卒業式のビデオを確認するほどです。私自身も、過去には以下のような指導をしたことがあります。
①手を振り、足を上げて歩く
②校長先生の前に来たら、止まる
③右足→左足の順番で爪先を校長先生に向ける
④右足で一歩だけ前進し直立
⑤校長先生の目を見て、礼
⑥名前を呼ばれたら大きな声で返事をして、右手→左手の順で証書を受け取る
⑦証書は、証書の面が見えるように左脇に抱える
⑧右足で一歩後退し、その後、歩き始める
これが儀式における正式の「ルール」かどうかはわかりません。多分、違うのでしょう。世に「マナー講師」が出回っているように、この手のマナーは海千山千もありそうです。しかし、前年度の卒業式のビデオを観て、私はこれを明文化しました。すると、翌年度以降は、私が作った「証書授与」の方法が、以後、その学校の伝統になったという話を聞いて笑ってしまいました。そういうものなのです。それ自体には意味がないけども、儀式は規定が細かい方が「荘厳に感じる」ということなのです。
少し、話は逸れますが、日本は明治以前は長い間「儒教」を国学として学んでいました。昌平坂学問所は有名ですね。そして、その儒教は孔子が開祖になるのですが、この孔子は「儒」の家庭に生まれたのです。「儒」とは古代中国の「儀式に詳しい人たち」のことで、古代中国では、儀式の作法について詳しいものが求められたのです。残念ながら、孔子は、存命中こそあまり活躍できなかったと言われていますが、その孔子が説いた教えの中には、この「儒」を重んじる思想がたくさんありますし、それが日本人の文化形成においても重要な影響を与えたことは明確でしょう。
小学校祝日大祭日儀式規定が1891年に制定されてからも、儀式内容の詳細について決定するのは時間を要したそうです。その後、1900年の「第三次小学校令」で以下のような内容になりました。
・職員及び児童は「君が代」を合唱する
・職員及び児童は御真影に最敬礼をする
・学校長は教育勅語を奉読する
・学校長は教育勅語に関する話をする
このようにして、天皇制強化としての「装置」として学校儀式の定型化が行われ、それが全国一様に広がっていったそうです。
ここで登場した「君が代」については、卒業式の際に「起立をしない教職員」や、君が代の合唱の際に「口を開けているか」などをチェックされたなどが問題になったことも記憶に新しいかと思います。そのような問題も、戦前のこのような規定と地続きであると考えれば、教育史を学ぶことの意義も感じることができますね。