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『それでも僕は、「評価」に異議を唱えたい。』のまえがき

この度は拙著『評価圧力(仮)』をお買い上げいただき、ありがとうございます。まだお買い上げいただいていない方は、一章は読み飛ばしてもらって結構ですので、二章から数ページ読んでいただいて「これは、今までの学習評価の本と違うな」と感じてもらえたら購入してもらえると幸いです。

 学習評価という言葉がしきりに言われるようになりました。「指導と評価の一体化」も良く聞きますね。しかし、現場では、学習評価への理解が深まっているかと言われれば、まったくそうとは感じません。それは、「総合的な学習の時間」や「外国語活動」や「道徳の教科化」や「一人一台パソコン」と違って、「学習評価」を詳しく知らずに「なんとなく」やっていても特段の支障が無いからではないでしょうか。実際、今だに「挙手の回数」を「主体的に学習に取り組む態度」の評価に取り入れている先生がいるくらいです。
 さらに、学習評価が現場に受け入れられにくい理由として「用語の複雑さ」もあると感じます。これは、学習評価を理解するためのハードルが高いということです。ちょっとやそっと勉強した程度では、「目標に準拠する評価」を適切に運用することは難しいでしょう。

 そして、僕がこの「まえがき」で一番強調して言いたいことは、文部科学省は「評価のコストをゼロ査定している」という点です。学習評価を適切に運用するには、各教員に、かなりの勉強量が求められます。さらに、それを毎時間の授業の指導に活かしていき、かつ学期末の総括的な評価につなげるためには相当の「時間と労力」が必要です。
 しかし、現在の学校現場にそのような「時間と労力」を求めてもいいのでしょうか。「世界で一番忙しい先生」と言われる日本の先生たちの現状はメディアでも報じられるようになってきました。その成果として、教員採用試験の倍率はどんどん下がっていきます。このままでは「希望すれば誰でも先生になれる」時代も目前です。

 そんな火の車状態の学校現場にやってきた「学習評価」と、我々はどのように向き合っていけばよいのでしょうか。国立教育政策研究所は、随分とご丁寧な冊子を、全教科に渡って用意してくださいました。全教科を教えることもある小学校教員は、このすべての教科の冊子を読み込まないといけないのでしょうか。大学の先生方もたくさんの「学習評価」本を執筆してくださっています。それらも「国の方針」をいかに「適切に運用するか」を主眼に書かれています。
 それらの膨大な「適切な」情報を前に「打ちひしがれて」しまった僕が、学習評価に関する思いをぶちまけたのがこの一冊です。この本に書かれていることをそのままマネするというよりも、学習評価という教育実践を考えるときの「一つの目安」になればいいなと考えて書きました。
 人は二項対立でモノゴトを考える習性があります。しかし、二項対立を成立させるためには「相反する2つの意見」が必要です。僕の、ある意味では、学習評価の一般論から逸脱した考えを読んだ上で、ご自身の教育実践における学習評価の位置付けを「主体的に」考えてもらえれば幸いです。
 それでは、またあとがきでお会いしましょう。