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経済って、そんなに大切ですかね

教育という営為を経済的な言葉で語る言説が増えている。例えば、2015年に国連総会で採決されたSDGsには17の目標があるが、その4番目には教育に関する目標として「質の高い教育をみんなに」がある。その達成目標を概観してみると、そこには「技術や職に関する教育」や「新しく会社を起こしたりできる」や「職業訓練を受けることができる」などの「経済的な言葉」をいくつも発見することができる。もちろん、これらは我々の現在の社会を継続していくためには必要なことである。しかし、それだけでいいのだろうか、という問いが頭を離れない。

 先日、NHKの番組「クローズアップ現代」で「障害者グループホーム」についての特集があった(2024年10月8日放送)。「共生社会」の実現のために国は現在、「入所施設から地域」へという方針のもとで、グループホームを増やしているのだが、その事業に株式会社などの営利法人の参入を認めている。その営利法人の一つである「恵」における「利益優先経営の問題点」を特集していた。番組ではグループホームに子どもを預けている保護者の声として、次の言葉を紹介していた。「栄養士の管理する食事が提供されると聞いていましたが、入居後すぐに栄養士は辞めたと言われ、食事はご飯に肉が乗せられただけ。そのすぐ脇には簡易トイレが置かれ、排泄物もそのままにされていました。(番組HPより)」

 我々は多様性を尊重する社会で生きているはずであるが、この多様性は「無関心」に繋がってはいないだろうか。前段で私自身が使った、継続させていく必要があるとした「我々の現在の社会」という言葉の「我々」には、「含まれていない人たち」がいるのではないか、そんなことを考えてしまったとき、私は自分から出てきた言葉に戦慄してしまった。

 経済を回すために役立つ人材は「社会のフルメンバー」として認知され、そうではない人間は社会から「不可視化」されてしまう。そんなことは許されるはずがないのではあるが、現に教育の目標には、そういうことが暗黙の前提になっているのではないか、ということを考えてみたいと思う。なぜなら、教育には社会を再生産させる働きがあり、そこに任せてしまえば、この問題さえも再生産されてしまうからだ。