教育令の公布(1879)と改正(1880)
1872年(明治5年)に公布された学制は、大いに野心的で壮大な計画でした。それは全国を大学を頂点とする中央集権的な制度で、その計画によると、小学校は全国で約5万校設置されるというのですから、国民皆就学という被仰出書(おおせいだされしょ)の精神を十分に反映したものだったのでしょう(現在の小学校数が19000校ほど)。
しかし、やはり、それはあくまで「計画」であり「実現」は困難を極めました。実際、8校の設立が計画されていた大学でさえ、1877年(明治10年)に創設された東京大学一校に留まっていました。
そこで、文部大輔(もんぶたいふ 文部卿の次席にあたる役職)であった田中不二麿は学監(がっかん 文部卿の最高顧問)であるマレーの協力のもと、アメリカ合衆国の自由主義的な教育観を取り入れた「教育令」を1879年(明治12年)に制定し、同時に、制定から7年が経った「学制」を廃止しました。
この教育令は、学制の中央集権的な内容とは逆の内容で、学区制を廃止し、地方住民の自治を認めるものでした。住民によって公的に選出された教育委員会によって学校が管理され、カリキュラムなども地方の実態に合わせて各教育委員会が決定するものとされました。就学期間も、学制の下では、「下等小学・上等小学の各4年の計8年」だったものが「学齢間少なくとも16ヶ月」と、大幅に短縮されました。寺子屋の就学年数が1~2年であったことも関係しているのでしょう。就学の強制についても緩和されたそうです。
しかし、この急激な方針転換である「自由教育令」は、逆に住民の反発を招きました。1873年(明治6年)に出された「徴兵令(満20歳以上の男子は兵役)」や「地租改正(地価の3%を徴収)」などの新政府の近代化政策への不満とも相まって暴動も発生し、近代化の象徴的建築物であった小学校も焼き討ちされたそうです。就学拒否なども発生したので、教育令は翌年に早くも改正されることになりました。
改正された教育令では、再び中央集権的な内容になりました。就学規定も厳密にし、「小学校は3年間毎年16週以上」の就学を規定しています。
さらに、自由民権運動の高まりを危惧した宮廷官僚により、儒教的な保守のイデオロギーを教育で教えていこうとする「教学聖旨」の方針に乗っ取り、「修身」が筆頭教科になるなどもありましたが、この辺りは、また次回で。
今回は、「学制」の7年後に制定された「自由教育令」、そしてそれも翌年には改正されたという話をしました。
厳密に規定すれば反発され、逆に自由にしても反発され。明治政府の混乱ぶりがよく現れているなと感じました。
参考文献
『日本の教育経験』 JICA 2003
『教育の理念・歴史』 田中智志・橋本美保監修編著 一藝社 2013
『教育学の基礎と展開』 相澤伸幸著 ナカニシヤ出版 2007