教育関係における暴力性(同質性)の把握
教育関係というのはどこまでも暴力的です。それは教育という言葉が「教え育む」という意味を持ち、「権力の非対称性」を要求するからです。「教える」ということは、「教わる」側への介入を意味します。それは「知っている者」と「知らない者」に分け、知っている者により強い権力を付与するのです。
もう少し具体的な話をしましょう。教室という教育の場では教師に強い権力が付与されています。それは、教師がいなければ教育は機能しないからです。子供たちだけでも学べるという言説もありますが、少なくとも学校教育を論じる以上は「教師の存在」を抜きには語れないでしょう。「すべての場所は学びの場である」という素敵な言葉は、何も言っていないようなものです。教室では教師と子供の間には「権力の非対称性」があります。子供は教師よりも「弱い存在」なのです。
しかし、これは仕方のないことなのです。「教師と子供は同等である」と言ってしまえば、それは「学校における教育関係」ではあり得ないのです。教育関係を築いていく以上は、まずはこの「権力の非対称性」についての把握が必要なのです。
この章では、まず教育関係における暴力性を把握したいと思います。暴力というのは一見、強い言葉に感じるかもしれませんが、ここでの暴力は、殴る蹴るなどの「有形力の行使」に留まらず、「強い言葉での叱責」や「何かの活動を強制する」や「型にはめ込んで子どもを理解する」などの広い意味での「無形の暴力」をも含みたいと思います。このような広い意味での「暴力性」という概念はユダヤ人哲学者であるエマニュエル・レヴィナスの考え方でもあります。
レヴィナスは、自分の理解の及ぶ範囲を「同」とし、それ以外を「他」とする考え方を提案しました。そして、人は「他」を「同」として取り込みたがるが、その傾向にレヴィナスは暴力性を見て取るのです。
倫理学者でもある青木孝平氏は、フッサールが生み出し、ハイデガーが発展させた現象学の研究を振り返りつつ、現象学が「他」を蔑ろにしてきたことを以下のように分析しています。
「他」を無化し抹殺する、「匿名で非人称な無差別性のもつ無慈悲さ」などはどういうことなのでしょうか。具体的な事例で考えてみましょう。
例えば、荒れている子供がいたとします。その子が荒れている原因は「朝に家庭で保護者から強い叱責を受けて朝ごはんをもらえなかったこと」が原因だったとします。しかし、教師には子供の家庭の事情は見えないので、その子が荒れているのは「算数の問題が解けなかったからだ」と理解したとします。だから、その子の休み時間を使って「算数の問題が解けるように個別指導」をしました。しかし、その子は「休み時間にドッジボールをして楽しく過ごしたい」と思っていたので、その子供の思いは教師の思いによって潰されてしまったのです。
「他」を自己の「同」に取り込む暴力性というのはこういう場面を指します。「他」は「他者」とも言われます。「他者」とは「よくわからない存在」ということです。学級には「よくわからない他者」である「子供」が30人以上も存在している、そんな奇妙な空間だったのです。
レヴィナスは、「他者を理解する」ということが、そもそもの間違いであり、「他者との関係」を大切にしようと述べています。理解は暴力が伴ってしまうからです。
次に同質性についても触れておきましょう。同質性は暴力性を帯びています。それは、先ほどの「他」と「同」や、「よくわからない他者としての子供」などの説明とも関連します。つまり、人は多様で豊かな存在であるはずなのに、それらの多様性をロードローラーで平らに均してしまうというイメージです。このようなイメージは学校教育によくなされるイメージですね。「学校教育」を「工場」やら「軍隊」という比喩で批判する言説は、みなさんも一度は聞いたことがあるかと思います。そういう意味で同質性には暴力性が帯びているのです。
学校における教育関係には、この同質性が至る所に存在しています。そして、その同質性は「他と違う子供」や「他と違う教師」への暴力となって現れてしまうのです。
まずはこの暴力性(同質性)の把握からです。学校教育における教育関係にはどのような暴力性(同質性)が潜んでいるのでしょうか。一緒に考えていきましょう。