図画工作は誰のもの?
私の個人的な見解ではあるが、学校教育における、図画工作科というのは他の教科と異なる目的があると考えている。
他の教科には「正解」や「良いへの手本」が存在する。算数科にはそれが顕著であるし、体育科や音楽科にもそれはあるだろう。いずれも「目指すべき理想像」があって、教師はそこへ向けて「子どもを指導する」という構造からは抜け出しにくい。
近年、学校教育でも「児童の主体性」の重要性が叫ばれているが、これだって「児童のむき出しの主体性」を認めることになれば、現場は大混乱に陥り、授業どころではなくなる。
「今は算数よりも社会を学びたい僕の主体性を認めてください」となれば、時間割による一斉指導は消えてなくなるし、「先生の教え方は私に合わないので、自分で学びます」となれば、教師は必要なくなる。
つまり、文科省が想定している「児童の主体性」とは、「教師が想定している範囲からはみ出ない程度の主体性」であり、それは教師の思惑を感じ取れることのできる子しか達成できない「歪な主体性」であり、それを私は「教師への忖度」だと考えている。
付言すれば、この児童の主体性という能力?を教師が3段階で評価しろというのが、現在の学校教育における評価システムなのだから、これは、いよいよ「忖度」以外の何者でもない構造なのである。
さて、そんな「主体性とは何か」を考える上で、図画工作科の指導方針はまさしく我々教師の教育観が試されているのと考えることができる。なぜなら、図画工作科には「明確な正解や目指すべき理想」が無いからである。と、書くといきなり反論が飛んできそうなので、少し弁解させてもらう。
図画工作科が「全くの自由において行われるべきである」なんてファナティックなことをここでは述べるつもりはないし、学習指導要領の目標を無視しろとも言わない。ちなみに、学習指導要領の図画工作科の目標は以下の通りである。
どれも文句の付けようがないほどに良いことが書かれている。というか、学習指導要領の文章は全般的に良いものである。現場の先生は多忙なので、これを読む機会があまり無いであろうが、教科書ばかりを眺めて日々の授業を構想するだけだったら、一度、学習指導要領に立ち返ってみることをお勧めする。
我々の教育実践を法的に拘束するのは学習指導要領だけであり、教科書は教科書会社がそれを解釈して作られた「一案」なのである。現場ではこの意識が薄くなっていて、「教科書通りの授業をする」ことが大事という価値観があるが、それは「教科書を教える」という低レベルの授業であり、本来は「教科書で教える」という授業観で臨むべきなのである。
では、実際の現場の図画工作科はどのようになっているのだろうか。
それは「特殊な事情」により「かなり歪んでしまっている」というのが私の見解である。
特殊な事情というのは、「図画工作科でつくられた作品は掲示されるべきである」という学校側の事情である。これが図画工作における指導のあり方の大きな部分を規定し、また大切な部分を損ねてしまってもいる。
先述の目標にもあるとおり、その目標は児童の「創造性」を大いに認めている。「創造」というのは「生み出す」ということであり、それはまったくの自由である。もちろん、この「自由」は何でもいいというわけではない。いや、むしろかなりの制限はあるだろう。
例えば、「水彩絵の具」を用いる、「電動ノコギリ」を用いる、「彫刻刀」を用いるなどの「用具の指定」もあれば、「画用紙」に描く、「紙コップ」に描く、「木」を重ねて「釘」を打ち付けるなどの「材料の指定」もある。今回は「点描で描きましょう」とか「写実的に描きましょう」などの「技法の指定」だってあるだろう。
それは何も悪いことではない。先ほどの「むき出しの主体性」を認めてあげろという話ではない。むしろ、子どもの狭い世界には存在していなかった「用具・材料・技法など」に出会わせるということは、教育的であると言える。自由にやらせるだけだったら、子どもたちは就学前に習ったクレパスと画用紙以外の画材を知ることはないだろう。
しかし、これが上記の「図画工作科の作品は掲示されるべきである」という学校の事情と合わさった時に、その制限はかなり厳しくなり、それが図画工作が本来持つ豊かな教育的要素から遠ざけてしまうことになりかねないと危惧するのだ。
教室掲示というのを「教師の実践の練度」と捉える教師は現場に数多くいる。そして、教室掲示の中で一番目立つものは、教室の背面に飾られた児童の「作品」なのである。だから、教師の中には児童の作品を見て、教師の指導力を吟味する教師もいるくらいである。
まあ、これはわからないでもない。教師を覗いた時に初めに目に入るのが、背面の図工作品であり、その多くが「素晴らしい出来栄え」であれば、「おお、指導が行き届いているな」となるのは自然な反応であろう。
逆のパターンを思い浮かべてみよう。あなたが覗いた教室の背面掲示の児童の絵が、どれもガタガタで、あなたが「何だか残念」と感じる絵ばかりだったとしたら、あなたは、その学級の先生の「図画工作の指導能力」をどう感じるであろうか。
しかし、これはかなり厄介なことである。
つまり、教師が児童の作品の「出来栄え」や「見栄え」に関心を向け出すと、自然な流れとして、教師は「児童の作品制作に深く介入すること」になるからだ。
作品制作というのは、本来、自由な営みである。児童が作りたいように作ることが大切であるし(それが創造的)、それに対して周りがとやかくいう必要はない。もちろん、「技術的な指導」というのはあるだろう。「このように描きたいけど、どうすればいいのだろうか」という児童の悩みには答えてあげたらいい。これは何も悪いことではない。しかし、「ここの塗り方が足りないから塗りなさい」とか「ここはもっと丁寧に塗りなさい」というのは問題である。それは、結局、「作品の出来栄えが、自身の教育実践の成果だ」という教師のエゴ以外の何者でもなくなり、児童の創造性の軽視である。「あなたの創造性より、私が作らせたい作品を作りなさい」と言っているようなものである。
このように書くと、「それは良い作品を作らせるためのアドバイスである」との反論が出てきそうだが、そもそも何を持って「良い作品」なのかというのが、ここでは問われているのだ。つまり、教師が無意識に想定している「私が考える良い作品」に、子どもの作品をすり寄せてはいないだろうか、ということだ。
教師というのは「自分の思い通りにしたい」という思いが特に強い人たちである。小学生という子どもたち数十人を相手に日々教育を行う以上、これはある程度は仕方のないことであるが、それについて教師は常に自省的であらねばならないと思う。子どもたちは身近な大人の影響を強く受けるのだ。
ある先生の教室背面に置いてあった立体作品群を見たときに「あぁ、これは教師の介入が強いな」と感じた。それは、紙袋に新聞紙を詰めて、何かに見立ててから作品にするという「造形遊び」というジャンルの作品づくりなのであるが、そのクラスの子どもたちは、ほとんどが「ネコ」を作っていたのである。
子どもたちは素直である。教師の一つの例示が「目指すべき完成形」と感じたのであろう。ここから私は子どもたちの「創造性」も「豊かな情操」も感じ取ることができなかった(後日、再度そのクラスを覗くと、ネコが一匹もいなかった。これを見て、僕は再び「教師の強い介入」を感じることになった)。
私自身が図画工作の授業をするときにいつも言うセリフがある。
「図画工作科においては、どの作品が良いと感じるかに個人差があります。先生を10人集めて「好きな作品」を選ばせたら、10種類の作品が選ばれるでしょう。」
ちなみに、これは「教育評価」の観点から考えると「アウト」な意見である。教育評価の世界では、算数のように「明解な答え」がないような、「作品の評価」や「体育のダンスの評価」などは教師間の評価に「ズレ」が生じないように調整しろ、と言う考えである。そのために、作品群を用意して、教師たちがそれぞれを評価し、評価を見せ合い、「評価基準の調整(キャリブレーション)」を常にしていこうと言う研究者もいるのだが、それを多忙な教師に要求できる研究者の面の厚さには辟易させられる。教師の仕事は評価のみである、とでも考えているのだろう。この手の研究者の「現場への提案」がどれだけの現場を多忙へ追いやっているのだろう。
上記の考えは、学校教育における「良い作品」の豊かさも損ねていると言える。学校には、「教室掲示」と合わせて「廊下掲示」と言うのもある。これは、一般的に「学級の中から特に優れた作品がそこに掲示される」と言う意味合いで、教師からも児童からも認知されていることが多い。つまり、廊下に作品が掲示されるというのは「一つの名誉」なのである。
しかし、この廊下掲示を見ると、「同じような作品ばかり」が掲示されていることが多くて残念である。どれも「丁寧」で「線にブレがなく」、多くの人が「キレイ」と感じる作品である。これらの作品の創造性を否定する気は全くないが、それだけが「良い作品」なのだろうか。
例えば、荒々しい線を描き、よく見ると塗り残しもあるように見える塗り方ではあるが、全体としての印象で目を惹く作品というのもある。こういう作品が出てくると、私はワクワクする。彼はもしかしたら、「図画工作、苦手なんだよな。早く終わらせたいから、とっとと描いてしまおう」と思いながら描いたのかもしれない。でも、そんな彼の性格も含めて「創造性」にカウントしてはいけないのだろうか。
多くの教師は、上記の彼のような性格も含めて「指導されるべき対象」と捉えているようだ。「この線が雑です。もっとゆっくり丁寧に引きましょう」「ここの塗り残しを無くしましょう。画用紙の白色が見えてはいけません」。
こうして、子どもたちの「個性」というの名の「創造性」は、先生の考える「良い作品」というロードローラーによって均されていってしまうのではないだろうか。
私自身は、図画工作が長らく嫌いであった。それは、「みんなが良いと思えるキレイな作品」を自分は描けないと感じていたからである。でも、子どもたちを指導するようになって、この意識は若干和らいだ。私は「どんな作品でも、あなたの作品として認めます。そして、困ったら相談に乗るよ」というスタンスで指導に臨んでいる。だから、幸いにも、私のクラスの作品群は背面に並んでも、統一感は少なく、各所で児童の創造性が豊かに花開いていると感じることができる。一方、そんな私の背面掲示を見て、「うわぁ、これ、先生による指導が行き届いていないな」と感じる先生もまた多くいることだろうとも感じる。一体、図画工作科はどうあるべきなのだろうか。
最後に、一つだけ、私が見た残念な事例を紹介しよう。
彼は「図画工作科の研究を長らくしている」と評判の教師であった。彼の手にかかれば、どの学級も「美しい作品が仕上がる」ということであった。実際、彼の教室の作品を見にきては写真を撮る同僚は数多くいた。
ある日、移動教室をしている時に、彼の教室の横を通ることがあり、彼の図画工作の指導現場がちらっと見えたことがあった。そこで見た光景は彼が筆をもち、児童の作品に彼の筆で彼が直接描いている姿であった。彼の指導の全容を見たわけではないし、それは「全体の極々一部」であったのだろう。しかし、彼の教室の作品群を見た時に感じる「統一感」というのには、やはり彼の強い「介入」を感じ取ってしまい、私はそれを写真に収める気にはなれないのである。