見出し画像

評価(査定)に追われていませんか?


評価活動が注目されている

 「指導と評価の一体化」と言われています。相対評価だった昔とは異なり、現在は目標に準拠した評価が運用されています。これは扱いが非常に難しく、子どもたち一人一人の学びと目標とを比べて、評価していかないといけない。

 相対評価だったら簡単でした。同一課題をいくつかさせて、それを序列化して、上から何人にAなどの評価をしていけばよかったのですから。機械的にすぐに評価ができた。でも、それは非教育的であると、学習評価の研究者のみなさんが声を上げ続けた。たしかに、クラスの全員がどれだけ学習をがんばったとしても、その中で「相対的に頑張っていない子」を選び出すわけですからね。酷い制度であるとは思います。
 では、一方で、目標に準拠する評価が素晴らしいかというと、その判断には留保が必要です。それは「評価のコスト」をゼロ査定してしまっているからですね。評価の妥当性と信頼性を担保するためにも、子どもたちの学習活動を多様に記録しておき、評価をする際の材料にしなさい。材料は多いほうがいい。このような考え方が現場にはたしかにあります。

 学習評価については、専門家の方々がたくさんの解説書を出してくれてはいますが、それらは「現状の制度でどう運用していくか」に特化して書かれており、制度の抱える問題点にはほぼ言及されていません。だって、専門家の皆さんは「実際に学級担任として評価をしていない」のですからね。結果的に、評価の材料集めに追われる先生という構造が生まれてしまっている。と、このあたりの問題点については拙著『それでも僕は、「評価」に異議を唱えたい』(東洋館出版社)を参照してもらうとして、ここではそのエッセンスを簡単に述べておきたいと思います。

どうして評価をするのか

 学習評価については、本末転倒にならないことが大切です。つまり、「評価のための活動」ですね。三つの観点に沿って評価をしていかなといけないので、評価のことを考えるなと言っても無茶ではありますが、教師が子どもたちを評価しようという視点でばかり眺めていたら、それは教育者ではなくて査定者です。そして、人は査定され続けても成長することはできません。むしろ、萎縮していく一方です。

 では、評価は何のためにするのでしょうか。それは、子どもたちの「できない」を教師側が把握し、適切な「回復指導」をするためです。評価は「できる子」と「できない子」を「選別」するための道具では無いのです。そこを履き違えなければ、大きな問題は起きないでしょう。

 評価活動の成果は、「子どもたちに還元」されないといけません。だから、「なるべく子どもたちの側」で評価は完結してしまったほうがいい。これはどういうことでしょうか。

 つまり、放課後に誰もいない教室で、子どもたちの書いたノートに「これは、A」とか「これは、B」とかすることは、実はあまり意味が無いのです。それは「単なる格付け」になってしまいがちです。それよりも、実際に子どもたちがノートを書いているときに、子どもの側へ行き、「ここにはイラストがあるとわかりやすいね」とか「ここのまとめ方、すごくわかりやすよ」とか、そういう「その場の声かけ」こそが評価活動の本質なのです。

 だから、「指導と評価の一体化」が進む中で「放課後の仕事量が増えた」と思っているのならば、もしかしたら、その評価のベクトルの向きに修正が必要なのかもしれません。