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元気が出ない!の話
点滴の中身がポタポタと落ちるように、私の右腕の栄養も刻々と外に漏れ出て、やがて枯渇する。
毎日、夕方になると右腕は使用限界を迎えて握力を無くし、やがて灼熱の痛みの前に沈黙するのである。
腕全体が焼けるように痛むかと思えば、骨は氷を当てがわれたように冷たく、キシキシと音を立てて神経を圧迫する。
身体の内側と外側から容赦なく痛みを投げかけられて憔悴しきっていると、さらに追い討ちがあるのだ。
九月の残暑の湿り気を帯びた空気が、健常者には味わえぬほどの質量をともなって右腕にまとわりつき、安穏から私を引き離さんとする。
呼吸のために無くてはならない空気であるが、私は人生の何分の一かをこの空気の痛みによって悩まされている。
時には喘息の痛みとなり、肺をたわしでこすられる苦しみを。それは二十代の頃に頻発した。
そして今は右腕の痛みとして。
しかしこうも痛みにいじめられ続けると、まるで自身の存在自体がこの世から嫌われているかのような感覚になることもある。
周りの人も同情より、咳と痛みでろくな働きも出来ぬ厄介者とさえ思っているのではないか。
そんな猜疑心により、このごろは身体よりも心を痛くしているのである。
ならば一層、我いつの日か大事を為さむ、さすればその誉まれにより、いくばくか心の安穏を取り戻せるやもしれぬとの思いが募る。
しかし募りはすぐに焦りへと転化し、何も為せぬ現実に落胆し、この現実を逆転せしめる何事か起こるべしとの願いを、力無き視線に乗せて虚空へ送りやるのみ、そんな日々を過ごす。
(゜∀゜)
と、現在の右手の状況を文学的に表現してみました。
いま、私はミカ・ワルタリ著「エジプト人」という小説を読んでいて、その文学的な表現力にすっかり魅入られ、影響を受けてしまっているのでした。
この本は、最近知り合った「ローローさん」からおすすめされたものです。
ローローさんとはチェコ関連の記事で知り合いまして、その生き方、考え方、文章力にとても感服いたしまして、彼女が勧めてくれる本なら、と、すぐさまAmazonで取り寄せ、読んでいる次第でございます。
ここ数年、私はライトノベルなどは喜んで読んでおりましたが、昭和の濃い匂いのする文学作品にふれる機会はありませんでした。
ですので、この「エジプト人」はとても新鮮な刺激となり、私の語彙を文学的な方向へと導いてくれるものとなっております。
原文は1945年にフィンランドで書かれ、日本語訳(完訳)は昭和35年に発行されたようです。
約60年前ですね。
当時の日本は今ほどの「言葉狩り」のない時代でしたから、屈託のない形で差別用語が出てきたりもします。
もともと昭和のそういう言葉の中で育ってきた私ですので、そのへんはすんなり受け入れて、気にせず読み進めております。
描かれているのは古代エジプトが舞台。
ツタンカーメンが台頭する、ちょこっと前のあたりの時代がメインとなっています。
作中では、ツトという名前の少年として登場します。
彼が王になるとき、ツタンカーモン(ツト・アンク・アモン)という名になるのです。
エジプトで古くから信仰されていた「アモン神」というのがあり、アモン神に仕える司祭たちがかなり強い権力を持ち、それは王の権力を凌駕するほどの勢力になっていました。
それを改革しようとしたのが「アクナーテン」という、アモン神に対して「アトン神」を奉ずる新王でした。
私は学校で「イクナートン」という名前で教えられました。
結果としては、アクナーテンの宗教改革運動はいっときは成功したかに見えたものの最終的には失敗に終わり、旧来のアモン神の勢力がまたエジプトを支配するようになりました。
この構図は、私が研究しているフス戦争とよく似ています。
15世紀のヨーロッパはキリスト教の勢力が強く、中でもカトリック派がその主流となり、皇帝にもまさる権力組織として君臨していました。
それを快く思わない王族や貴族が、カトリック派への対抗馬として担ぎ上げようとしたのが「フス派」でした。
フス派はカトリック派の横暴を非難し、聖書の教えに立ち返れという運動を推進しました。
ところが、フス派の指導者であるヤン・フスが異端者として処刑されると、その後釜となった指導者らは、武力による宗教改革を打ち出し、フス派信徒を戦争に駆り立てます。
いっときはフス派が政権を取りましたが、それは長くは続きませんでした。
戦争で勝つことと、その後の政治の上手下手は全く別物なのです。
現代でも、クーデターが成功したとして、その後の政治をうまくやり、国民にあまねく幸せをもたらしたという例はあまりないのではないかと思います。
っていう、ちょいと難しいことを考えているうちは、右手の痛みも周りの人の視線も気になりません。
私の前世探究、ならびに歴史研究は、やはり私の人生の救いとなっています。
焼けるような痛みがあればこそ、そして不自由な思いをすればこそ、私の研究には他者とは違った奥行きが生まれるものだと信じております。