ボヘミア貴族「アレシュ・リーズンブルク」の研究進捗
ボヘミア王国貴族・アレシュ・リーズンブルクの研究進捗状況です。
アレシュ・リーズンブルクとは
ボヘミア王国・東ボヘミア地方の小貴族。
アレシュ・ブジェシュショフスキー・リーズンブルクというのが正式な名前で、「リーズンブルク家のブジェシュショフ支族のアレシュ」という意味。
フス戦争(1419〜1434)では軍事、政治双方の能力を発揮し、やがて国の代表貴族(国家元帥)の地位まで出世する。
彼の治世により、15年続いたフス戦争が終結した。
にもかかわらず、歴史における彼の行動は地味で目立たず、歴史書にも詳しくは載っておらず、地元のチェコ人の間でも知名度が低い。
彼は戦争を終結させたあとは国家元帥を退任しており、その後は戦争で荒廃した地方都市の再生事業に余生を捧げるのだった。
多くの資料では彼は1442年に亡くなったとされているが、死亡した場所や埋葬地などは不明である。
また、アレシュ・リーズンブルクの出自や幼少期についても不明な点が多いので、いろいろな資料から得た情報をもとに、幼少期から青年期までの彼の人生を考察してみようというのが、最近の研究太郎が執心しているところである。
資料A
『ベルキー・ブジェシュショフ(地名)の歴史は1348年に遡る。
この地にリーズンブルク出身のルチャダが嫁いで来て、リーズンブルクの支族となったのが始まり。
ルチャダには3人の息子がいて、長兄アレシュ、次兄アレシュ、三男ベネシュだった。
長兄アレシュは1370年に死去。
それにともない次兄アレシュが家長となる。
次兄アレシュは名家メジジーチ家のアンナという女性と結婚し、夫婦の間に息子アレシュが生まれる。※
1402年、ブジェシュショフは息子アレシュ・リーズンブルクの資産となり、その3年後に、彼のための小さな城下町が建設された。』
※どの資料もアレシュ・リーズンブルクが幼少期に養子に出されたとは記載していない。が、いつ、どこで生まれたのかという記述もない。
資料B
『次兄アレシュの名が歴史書に登場するのは1402年が最後である。』
考察:親子でアレシュという名前だからややこしくなるが、父アレシュ(次兄アレシュ)が1402年に亡くなったので、その資産は息子アレシュのものになったという流れだろう。
資料C
『1408年、リーズンブルク家ブジェシュショフ支族の領主は、本拠地をイェジツェからブジェシュショフに移した。』
考察:ブジェシュショフには城跡が二つあり、それぞれ「古い城」「新しい城」と呼ばれている。
もともと古い城にリーズンブルク家が住んでいたが、それを取り壊して新しい城の建造をはじめた。
その建築の間、リーズンブルク家は近隣のイェジツェに拠点を移し、城の建造が済んだタイミングで本拠地をブジェシュショフに戻した、ということだろう。
1405年に城下町が先に完成し、新しい城が完成したのは1408年ということだ。
資料D
『1415年、リーズンブルク領主ベネシュは、フラデツ・クラーロヴェーに住む未成年の貴族に財産の一部を売却した。』
考察:この『未成年』がアレシュ・リーズンブルク(ブジェシュショフ)である可能性があり、リーズンブルク領主ベネシュこそ、アレシュの実の父である。しかし歴史書や家系図では、アレシュとベネシュは「親戚」という位置付けである。
リーズンブルク領主のベネシュについては、ブジェシュショフ支族の三男ベネシュとは別人である。
三男ベネシュは、別名ベネシュ・クルチナ。
クルチーンという街の領主となったのが由来。(このベネシュ・クルチナは1411年に死去している。)
また、この1415年の時点で、アレシュは本拠地を離れ、東ボヘミアの首都のフラデツ・クラーロヴェーに住んでいたということになる。
資料D続き
『1417年、リーズンブルク領主ベネシュは、甥のアレシュ・ブジェシュショフを養子に迎え、財産を譲渡する。翌年ベネシュは死亡した。』
考察:養子になった、とあるが、アレシュはもともとリーズンブルク出身で、幼少期にブジェシュショフに養子に出されていたとも考えられる。
ベネシュが遺産相続の準備を1415年から始めており、1417年に遺産相続の準備が整い、アレシュを本家に呼び戻したのであろう。
まとめ:
1396年、リーズンブルク家に生まれたアレシュは、何らかの事情により親戚のブジェシュショフ家に養子に出された。
1402年に養父が亡くなるとアレシュが財産を継ぎ、城下町や城の新造が始まる。
1408年に新しい城と街が揃い、少年期を過ごす。
1415年には、アレシュは首都フラデツ・クラーロヴェーに身を置く。大学に進学するようなイメージ。
フラデツ・クラーロヴェーで青春時代を過ごし、同年代の貴族や町人とつるんで楽しく過ごす。
1417年に、アレシュは本家リーズンブルクの御曹司であることが判明し、本家に呼び戻され、リーズンブルク家の後継者となる。
そして、時は1419年。
フス戦争の開戦にともない、アレシュも戦争に巻き込まれていくのである。
余談:
私(研究太郎)がフス戦争について調べ始めた当初、この物語を小説にしようと真っ先に考えました。
しかし、誰を主人公にすべきか悩みました。
フス戦争の由来となった「ヤン・フス」を主人公にするか。
それとも、フス戦争で一番有名な武将である「ヤン・ジジュカ(隻眼のヤンという意味)」にするか。
または、単身で数万の軍に乗り込み、説得で撤退させることに成功したという逸話の残る「ヤン・ロキツァナ」か。
※ちなみに、このロキツァナを主人公にしようと考えたとき、彼の人生の不明な点をフィクションで補おうとしました。
彼の出身を「鍛冶屋の息子」とし、彼には姪っ子がいることにし、その姪っ子が大きくなったときに「平和団体を立ち上げる」という設定にしたのです。
ところが、あとから歴史書や論文を調べていくと、フィクションとして考えていたことが史実と一致していたのでびっくり。
『ヤン・ロキツァナは鍛冶屋の息子だった』
『ヤン・ロキツァナにはジェホイという名の甥がいて、ジェホイが成人すると「ボヘミア友愛団」という平和団体の創始者となる』
という記述を見つけて鳥肌が立ちました。
いずれにせよ、「ヤン」という名前の人物が多いため、物語の題名は「終焉のヤン」にしようと思っていました。
フス戦争を終わらせたヤン、というイメージです。
その発案から5年を経た現在、新たな情報を入手して、また鳥肌が立っています。
それは、
「フス戦争を終結へと導いたアレシュ・リーズンブルクは、1442年以降は名前を『ヤン・イェジツェ』と変えて余生を過ごした」
というものです。
「終焉のヤン」の伏線回収ですよね。
おまけ
AIに描いてもらったアレシュの似顔絵