見出し画像

この物語の意味は?何を意味しているのか教えてください。 ーーでも、それは私の仕事じゃないの、あなたの仕事よ。2020/05/23

 ようやく休日になった気分で、なんとなく太ももがひと回り太くなったことを実感しながら日課の「リングフィット」をこなし、散歩してつまみを買い、あとは本を読んだりして過ごしたのだけど、テラスハウスの出演者自殺の報が流れて、なんともやるせない気持ちにもなった。今のシーズンのテラスハウスを見ているわけではないけれど、22歳なんて、とても若い、若すぎるよね、という思いと、もう戻れない不可逆な悲劇を眼の前に、どうにもならんかったのかなという思いなどが、人によって濃淡あるんだろうけど、去来している感じ。ル・グウィンが自らの老いにも向き合っている最後のエッセイ集『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』を読み始めた。

  彼女は蔓延するポジティブシンキングとそれに基づくよくある励まし「ちっとも歳なんか取っていない」とか「まだまだ若い」とかに対する違和感をこんな風に書いている。

 現実否認による励ましは、善意からのものであれ、逆効果だ。恐怖というものが、賢いことはめったにないし、親切であることは決してない。元気づけようとしているのだと言うなら、そもそも誰を元気づけようとしているのか、考えてみるとよい。ほんとうにジジババを元気づけようとしているのだろうか。
 私の老齢が存在しないと告げることは、私が存在しないと言うのと同じだ。私の老齢を消すことは、私の人生を消すことーー私を消すことだ。
ル・グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』P.29

 私が生きて歳を重ねていることは事実だし、ある段階を越えるとそこから先は衰えていく一方になることも現実なのだけど、老いとはそもそもそういうものなのだから老いを否定する必要はないんじゃないかというのは、自らも老境に入らないとわからない部分はあるけれど、なんとなくそうなんだろうな。

 作家がどのように仕事をするかについての、大雑把で一般的な誤解に基づく、大雑把で一般的な質問をする手紙もある。たとえばこんな問いだ。どこからアイディアを得ますか? あなたのこの作品のメッセージは何ですか? どうしてこの本を書いたのですか? どうしてものを書くのですか?
 この最後の質間(実のところ、非常に形而上学的な質問だ)をするのは年若い読者が多い。作家の中には、実際にはものを書いて生計を立てているのでなくとも、「金のためです」と答える人がいる。この答えは確実に、さらなる議論を阻止する。行き止まりの中の行き止まりというべき答えだ。この質問に対する私の正直な答えは、「書きたいから」だ。だが、その答えが質問者の聞きたいものであることはめったにないし、教師が読書感想文や期末レポートの中に見出したいものであることもまれだ。彼らは何かしら意味のあることを求める。
 意味ーーおそらくこれが共通項だ。それこそが私が探していた悩みの源泉だ。この本の意味は何ですか?この本のこの出来事の意味は? この物語の意味は? 何を意味しているのか教えてください。
 でも、それは私の仕事じゃないの、あなたの仕事よ。
ル・グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』P.62

 作家はその物語が自分にとって何を意味するかは部分的に理解しているけれど、それだって、10年前と今では変化してくるとル・グウィンは言う。自分にとって意味を見つけるのは読み手である自分の仕事。そして意味はその時々、人によっても変化する。読むってのはそれくらい能動的かつごく私的な活動なのであって、あらかじめ答えがあって、他人に答えを教えてもらえると思うのはまったくもって筋違いなんであるなぁ。

 芸術における意味は、科学における意味と同じではない。言葉が理解されている限り、熱力学第二法則の意味は、誰がいつ、どこで読んでも変わらない。『ハックルベリー・フォンの冒険』の意味は変わる。
ル・グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』P.63

 『ゲド戦記』の持つ意味も変わる。自分との闘いに意味を見出す人もいるだろうし、言葉の持つ力に対して意味を見出す人もいるだろうし、シリーズ中色濃くなっていくフェミニズム的なものに意味を感じる人もいるだろうし、そのすべてをまとめてうわっと感じてくらくらするような人もいるだろう。小学生の時に図書館で読み、なんだか地下をウロウロする地味な話、なのになんか強烈に印象に残っていることを頼りに再読してみたりしてその偉大さに大人になってから気づいたってそれはそれで別に構わないし、それがなんの意味も持たない人がいたとしてもそれはそれで別に構わない。

 あなたにとって「何を意味するか」は、あくまでもあなたにとっての意味だ。それが自分にとって何を意味するのか見定め難いときに、書いた私に訊きたくなる気持ちはわからなくもない。だけど訊かないでほしい。書評家や評論家やブロガーや研究者の書いたものを読めばいい。彼らは皆、 本か自分にとって意味することについて書く。そうすることで、本を説明して、ほかの読者にとって役に立つ、適切な共通の理解を打ち立てようと努める。それが彼らの仕事であり、彼らの一部は非常にうまくやってのけている。
 私自身も書評を書くときには、そういう仕事をやっていて、それを楽しんでいる。しかし、フィクションの書き手としての私の仕事は、フィクションを書くことで、解説することではない。アー トは説明ではない。アートはアーティストがおこなうものであり、アーティストが説明するものではない。
ル・グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』P.63 - P.64

 なんというか、とてもわかりやすく明晰な話だと思っていて、こういうのが知性だよなぁ、などと思う。別にこの解釈が唯一絶対とは言わないけれど、アートとは?本を読むこと、書き手と読み手、読者だけが持つ可能性、などといった基本的な概念があまり教育の途上で語られない気がしていて、それはとても残念なことのように今更ながら思う。それはもちろん本を読んでいくことで後天的に色々と感得していけるものなのではあるけれど、スタートラインに立つところまではもう少しイージーでも良い気がする。

 力があれば正しいわけではない――そうですよね?
 従って正しいからといって力がもてるわけではない。おわかりですよね?
 だが、私たちはそうあってほしいと思いがちだ。「私の力は十人力。私の心が純粋だから」と。
ル・グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』P.81

 こういった「正義」が勝つ、わけではないし、という正しさとの距離の置き方みたいなものなんかは、やはりなかなか理解されないというか、ついつい正しければ力を持てるはずだし、その力を行使しても良いのだ、といった根拠もない信念に結びつきがちであるのだけど、それを助長しているのもある種の物語だし、それをもう少し是正していけるのもまた物語の力のはずなんだよなぁ、などと思ったりしていた。

 しかしなんか別にこういう解釈や意味を語っても仕方ないというか、日記とはもっとこう意味のないことにあふれているべきなんじゃないかとか、そういうことも思ってしまうのであって、昼に作った釜玉うどんが簡単な割には大好評でよかったこととか、娘の美味しいことに対する賛辞である「誕生日にも作ってもらいたいくらい美味しい」という表現がなんとも可笑しいことであるとか、夜、妻が作ったスペアリブを煮込んだやつが美味しくてお酒が進んだのでさっさと寝たことであるとか、「暇なんかないわ 読みたい本が多すぎて」という生活を送っていることとか、そんなの誰が読みたいの?っていう誰にも向けて書かれていない、いやあるとすれば自分だけのために書かれたものが日記なのであって、などと最後に言い訳のように書き連ねることで、意味を薄めようとしている。

自分の好きなことを表明すると、気の合う仲間が集まってくるらしい。とりあえず、読んでくれた人に感謝、スキ押してくれた人に大感謝、あなたのスキが次を書くモチベーションです。サポートはいわゆる投げ銭。noteの会員じゃなくてもできるらしい。そんな奇特な人には超大感謝&幸せを祈ります。