HUGっとプリキュアが名作過ぎて涙したよね
昨年はプリキュア15周年。
娘が生まれ、長女が2歳の頃からなんとなく娘と共に横目で見てきたから実に5年くらいプリキュアを見守ってきた。
どうせ子供だましのくだらないアニメなんでしょ、と思う輩が世の大勢を占めているのかもしれないけれど、コンテンツを作る人たちというのは何であれそんなに適当に作らないのだよ。
そもそもプリキュアは「幼児期の男女に差はほとんどなく公園や幼稚園では男女関係なく飛び跳ねて遊びたいはず」という考えから生まれ、企画書に「女の子だって暴れたい」と書いた、というのが原点のシリーズだ。
そう考えると最初から男らしさ、女らしさ、みたいな境界を越えるところから始まったシリーズだとも言える。
この男らしさ、女らしさみたいなのがやっかいなわけよ。娘が生まれ、保育園に預けながら働く中で何に驚いたかって男らしさ、女らしさの社会的な刷り込みの強さなんだよね。家庭ではジェンダー的な「女の子なんだからかくあるべし」という物言いをしないように意識していたし、むしろそういう決めつけは嫌いなんだよねーって言ってたんだけど、いつの間にか、女の子だからピンク、とか男の子じゃないからあれは嫌だとか言い出すようになった時は驚いた。(幸いその後長女は女の子だからピンクとかみんな言うのが嫌だから私は黒が好きだ、とか言う様になった。)
そう、よっぽどプリキュアの方がそういった制約から自由だ。中でも先日最終回を迎えたHUGっとプリキュアは傑作だった。
本作が発表され放送が始まる前は主人公たちが赤ちゃんを育てるという設定に色々な批判があった。曰く、子供に育児なんてとか、育児は女性がやるものという性別期待役割を刷り込み、助長、強化するなんて、とか。
しかしそんな批判は完璧に的外れだったね。当たり前のように育児をする父親が描かれていたし、シリーズ初、男の子がプリキュアになるくらい軽やかにジェンダーの壁を越えてきた。
最後には街のみんながプリキュアになるシーンがある。プリキュアの安売りだと思った?
僕はそうは思わない。プリキュア自身が特別な存在であることも否定しているんじゃないかな。それは特別だと思っていた存在も裏を返せば同じ普通の人間なんだよね、ということでもあるし、なろうと思えば可能性は無限大でもあることの表れだとも思う。
これは「なんでもできる! なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!」という本作のテーマを見事に表現していて二人の娘と共に歩んできたプリキュア人生においてもこれは最高傑作なんじゃなかろうかと思う次第。
ジェンダー問題的な話としては女性たちの絶望が詰まった本と称する『82年生まれ、キム・ジヨン』が話題だけど、男や女として生まれたこと自体にはなんの罪もないわけで、少しでもそのことが絶望に繋がらない社会になるといいよね。頭の固いおっさん、おばさん達にHUGっとプリキュアとキム・ジヨンをセットで体験させたい。
男の子なんだから、女の子なんだから、◯◯しなきゃいけない、みたいな言説はなかなか消えないけれど、なるべく自分の周囲の人がそういったくだらない決めつけに悩まされないと良いな。
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ちなみにプリキュアは主題歌も素晴らしいのだけど、本作も良かった。
「叶えたい」より「叶える」私なんだ、というフレーズが意志を感じて良い。そもそもなりたい自分になることは夢でもなければ奇跡でもない。意志だと思う派。
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社会問題に切り込むプリキュアとしてハフィントンポストの記事にもなってた模様。
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「なんでもできる! なんでもなれる!」ということに関しての傑作としては、学生の頃に見たシルク・ドゥ・ソレイユ の「キダム」も素晴らしかったなぁ。