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生成AIと児童ポルノについて

AI推進派の五島さんって方のアカウントが今アツい。氏は「児童ポルノを生成するのはやめるべきじゃないか」と提案したようだ。生成AIユーザーの世間的な立場を考えたからであろう非常にマトモな意見だと思う。そしたらもう、周りの生成AIユーザーが烈火の如く怒り、袋叩きである。

これは画像生成AIユーザーにのみ向けて言います
「私は児童ポルノをやりません」と宣言した方がいいです
私は法的な規制を目指していません
国内の生成AIコミュニティだけは国際基準に則って児童ポルノに厳しくなって欲しいんです

おはようございます。榊正宗です。

AI技術の進化と共に、非実在児童ポルノをめぐる議論がますます重要になっています。この問題は倫理的なグレーゾーンに位置し、法律による規制が果たして適切なのか、またどこまでが許容されるべきなのかという点で、社会全体が慎重に考えるべきテーマです。

非実在児童ポルノとは、実在しない架空のキャラクターやストーリーを題材にしたコンテンツのことです。このような表現は現実の被害者が存在しないという特徴がありますが、それでも倫理的な是非が問われる場合があります。特にAI技術を活用することで、この種のコンテンツを大量かつ容易に生成できる現状を考えると、その取り扱いはますます複雑化しています。

このテーマを語る際、ナチス・ドイツの表現規制の歴史に触れることは重要です。ナチスは、自分たちのイデオロギーにそぐわない芸術や文学、思想を「退廃的」と見なし、焚書や検閲を通じて排除しました。一部の作品を社会から完全に締め出すことで、人々の思想や創造性を抑圧し、自由な文化の発展を妨げたのです。この歴史から学べるのは、表現規制が過度に進むと、自由や多様性を損なうだけでなく、権力者が都合よく社会を統制する道具になりかねないということです。

この視点から考えると、非実在児童ポルノの法規制にも慎重になるべき理由が見えてきます。たとえば、「ドラえもん」のしずかちゃんのお風呂シーンのような作品は、多くの人が自然な大衆娯楽の芸術表現として受け入れているものですよね。これを一律に「不適切」と見なして規制するのは、行き過ぎだと言えるでしょう。このような表現が社会全体の健全性を脅かすものとは考えにくいですし、むしろ芸術や物語の一部として文化的価値を持つ場合も多いです。

さらに厄介なのは、どこまでが「許容される表現」で、どこからが「規制すべき対象」になるのか、厳密な線引きが非常に難しい点です。この曖昧さゆえに、法律で一律に規制しようとすれば、表現の自由が大きく萎縮してしまう可能性があります。法律というのは、社会秩序を維持するための最低限の基準であるべきです。一方で、倫理や道徳はもっと柔軟で、社会全体で自主的に形成すべきものです。これらを混同してしまうと、自由な表現や創造性を犠牲にしてしまう危険性があるんですよね。

したがって、この問題に取り組むためには、法律だけに頼らず、社会全体での対話や教育が重要です。そして、技術開発者やクリエイター自身が倫理的な責任を持ち、適切なガイドラインを策定することも必要でしょう。一方で、利用者である私たちも、このテーマに関心を持ち、適切な活用のあり方を議論していく責任があります。

AI技術や非実在児童ポルノに関する議論は、単に法規制の是非を問うだけでなく、表現の自由、倫理、そして法律の関係性を考える良い機会です。ナチスの歴史や現在の技術的課題を踏まえ、どのようにバランスを取るか――その答えを模索していくことが、これからの社会にとって不可欠だと感じます。

非実在児童ポルノの議論では、倫理的な判断や法的規制の限界について慎重に考える必要があります。この問題を深く掘り下げると、「何をもって不適切とするのか」「どこまで規制するのが適切なのか」といった根本的な問いに直面します。特に、極端な表現と日常的な文化や教育の中で受け入れられる表現を同一視して規制するのは、明らかに行き過ぎです。

たとえば、大人が子どもを性的に搾取するような表現は、現実の子どもへの被害を助長するリスクがあるため、倫理的にも法的にも厳しく取り締まるべきだという意見が広く支持されています。一方で、子どもが自分の成長の中で性について学ぶ過程や、性的な好奇心を描いた漫画や物語まで一律に規制するのは別の問題です。このような表現には、教育的な側面や文化的な意味が含まれる場合も多く、それを不適切と決めつけるのは自由な表現を狭める結果を招きます。

たとえば、少年漫画や少女漫画では、恋愛や初恋を通じて性や感情を学ぶストーリーが描かれることがありますよね。そこに多少のエッチな描写が含まれていたとしても、それは多くの場合、キャラクターの成長や物語のリアリティを高めるためのものです。読者にとっても、それが単なる娯楽だけでなく、自分自身を見つめ直すきっかけになることもあるんです。

こうした作品と、あからさまに性的搾取を目的としたものを同一視するのは間違いです。このような表現までをすべて禁止することは、表現の自由を脅かし、文化や教育の多様性を失わせる結果になるでしょう。実際に、どこまでを許容し、どこからを規制すべきかを厳密に線引きすることは非常に難しいですが、その曖昧さを理由に、法律で広く網をかけるような規制を行うのは適切ではありません。

法律は社会の最低限の秩序を守るために存在しますが、こういったデリケートなテーマでは、法律だけで対応しようとするのではなく、社会全体での倫理的な議論や、教育的なアプローチが求められます。また、クリエイターや技術開発者が自主的に倫理観を持ち、作品に責任を持つことも大切です。

極端な表現と教育的・文化的な表現を分けて考えることが、非実在児童ポルノの議論においては不可欠です。規制の議論が、子どもたちや若者が性について健全に学び、自己理解を深める機会を奪うような方向に進まないことを強く願います。技術の進化と表現の自由、そして倫理観の調和を目指して、社会全体で建設的な議論を重ねることが必要だと感じます。

今回話題になっている五島さんのツイートですが、これは議論を促すための意見であって、法規制を強制しようとするフェミニスト系のキャンセルカルチャーとは性質が異なるように感じました。そう考えると、五島さんの意見そのものは問題ないものだと思います。

ただ、表現の自由を守るための活動が、結果的にキャンセルカルチャーに転じてしまうのは本末転倒です。それでは本来守りたい自由そのものを損なってしまうからです。だからこそ、こういった意見については冷静に、感情的にならずに、建設的な議論を重ねることが大切だと思います。

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