貞明皇后〜大正天皇に嫁いだおてんば黒姫様〜
皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。
長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。
楽しんでいただけたら、嬉しいです。
6月25日は、第123代天皇・大正天皇の皇后、貞明皇后がお生まれになった日。(1884年6月25日-1951年5月17日)お印は藤。旧名は九条節子(さだこ)。
五摂家の名門、公爵九条道孝の四女として、
生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。
同年、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、
てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と呼ばれるほど逞しく育った。
農家の風習の中で育ち、
栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだそう。
また、養母のていは仏教への信仰心が篤く、
早朝から観音経を読経しており、
節子様もていと共に仏壇に手を合わせていた。
色白でなければ美女とされない当時にあって、
色黒であった節子様は、ひとえに健康であるからと皇太子のお相手に選ばれた。
その背景には、列強諸国と並ぶためには、
一夫一婦制を取ることが重要とされ、
健康な男子を産めるお妃が望まれたことがある。
貞明皇后の親友の証言によれば、
近視のために目つきがあまりよくなくて、
意地悪だと誤解されたという。
新婚早々、夫婦でテニスをするのが嬉しくて、
御殿から外に出る時、階段を二、三段飛び降り、
老女官に「ほう、叶ひませんな」と呆れられる。
また、窮屈な宮中の暮しには泣き言も漏らしている。
「結婚の翌日から泣いて暮した」、
「九条家の娘として臣下に嫁いでゐたら私はもつと幸福だつたかも知れない」。
大正7年に大正天皇が発病すると、献身的に夫に尽くした。
病室に付き添って、痰や咳の世話までする。
ベッドの上り下りも手をとって助けた。
侍従の万里小路(までのこうじ)元秀の証言によれば、
「お小水の事までも皇后がお世話をなさいました」。
看病も空しく崩御すると、
貞明皇后は一室に亡き夫の肖像画を飾り、
日課の如く、朝食を終えると御影殿に向かい、
その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるように」語られ、
退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。
その部屋では、晩年に到るまで「寒中といへども敷物を御用ひなさいませんでした」と。
が、なぜか長男の昭和天皇とは意見を異にすることが多かった。
側近によれば、戦争の行く末については、
支那事変の時から、勝てるとは考えていなかった。
戦時中は沼津の御用邸で過ごしていた。
接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、
「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、
いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。
貞明皇后のお人柄について、戦後に侍従長となった大金益次郎は、
「卑近な言葉で甚だ相済まないが、一箇の親切な伯母さん」と話していた。
1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。