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若干22歳で日本国憲法第24条の草案をつくったウクライナ女性 〜ベアテ・シロタ・ゴードン〜
10月25日は、アメリカの舞台芸術ディレクター、フェミニスト、ベアテ・シロタ・ゴードンが生まれた日。まさに日本女性のためのフェミニストだった。
(1923年10月25日-2012年12月30日)
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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
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先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。
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ウィーン生まれ。裕福なユダヤ系ウクライナ人(ロシア統治時代)の家庭に生まれた。
戦前、リストの再来といわれたピアニストだった父、レオ・シロタが東京音楽大学で教鞭をとったことから家族で来日し、5歳から15歳までを東京で暮らした。招聘したのは、作曲家の山田耕作だった。
ピアノとダンスを習い、さまざまなコンサート、オペラ、日本の伝統芸能を含む芝居などに馴染み、日本の文化を積極的に吸収して育つ。
当時お手伝いをしていた小柴美代という女性から「結婚は直前まで相手のことを知らされないこと」や、「男性と一緒に歩く時は一歩下がって歩く」など家長制度のもとで女性は地位の低い存在だったことを再三聞かされて育った。
1939年、アメリカ留学に旅立つが、当地にあるときに太平洋戦争が勃発した。ミルズ・カレッジを卒業すると、「戦争情報局」に勤務し、日本人向けのプロパガンダの文章を書く。太平洋戦争は両親は日本に残ったままだった。
戦争が終わると直ちに、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の通訳として、再び東京の土を踏み、両親と再会。
ベアテは、ロシア語、英語、日本語、ドイツ語、フランス語を自由に操った。
当時22歳の若さで、法律家でもなく、憲法草案作成について何の知識もなかったが、日本の女性たちが男性と真に平等の権利を獲得できるよう、助けたいと心から望んでいた。
草案起草にあたり、10ヶ国の憲法を参照し、日本女性に対し、米国女性よりも広範な権利を付与したうえ、米国は日本国憲法に見習うべきだと言った。
さらに日本の女性が幸せな結婚生活を送るためにはどのような憲法があればよいかをいつも考え、第24条の草案を書いた。
第24条では、婚姻は結婚する当事者の合意のみで成立し、夫婦は同等の権利を有することや、結婚や離婚、家族や相続に関する法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならないということが定められている。
何より男女が法のもとに平等だった。
日本国憲法施行以前には、「日本女性は、歴史的に“動産”とみなされ、両親や夫の気まぐれ次第で売り買いされ得る存在だった。仮に、日本国憲法で最重要な既定を第9条の『平和条項』だとすると、平等に関する規定はそれに次いで重大だ」と。
1947年、シロタ家は米国にもどり、ベアテは軍諜報部の将校、ジョゼフ・ゴードンと結婚した。彼女は芸術活動に携わった。
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2012年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で死去。享年89歳。
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