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29  捧げる決心   【小説】




    ♫とどまる事を知らない時間の中で
     いくつもの移りゆく街並を眺めていた

      〝Tomorrow never knows〟by Mr.children

(最低の男だ・・・もう二度とこんな事やっちゃ駄目だ・・・)
 涼介は罪のないまゆみの心を粉々にし、最後まで口を開かず、下劣で卑怯な男に徹したぬるく情けない自分の心にそう吐き捨てた。
「くそっ・・・」
 涼介はハンドルを叩き、強く握り締め、何かに耐えていた。


             ▽

 涼介は小倉駅構内に向かって揺ら揺らと歩くまゆみを最後まで見つめていた。
 ずぶ濡れになって歩くまゆみの背中をずっと見つめていた。
 心の底から謝り続けていた。
 苦過ぎる激痛と鈍痛が交互に体を突き抜けていた。
「ごめんな・・・」
 涼介はまゆみが消えて行った小倉駅北口一階出入り口をずっと見ていた。
 絶え間なく人達が行き交っていた。
 その人波に紛れて、ふと、まゆみが姿を見せるのではないかと思っていた。
 それでも構わないと考えていた。
 戻って来たら心も躰も温める準備は出来ていた。
 虚脱感が全身を襲っていた。
 今、何を成すべきか考えていた。
 もう何も成す術のない関係になったんだと理解しようとしていた。
(ごめんな・・・)
 ブレーキを踏み、ギアをドライブに入れた。
 それでもまだ涼介はずっと小倉駅北口一階出入り口を見つめていた。

           △


「醜い野郎だよ・・・」
 車は小倉駅北口ロータリーを抜け国際会議場入口交差点の信号で右折待ちをしていた。
 豪雨だった。
 遣り切れなさを紛らわす為にCDのスイッチを入れていた。
 まゆみが選んだアルバムが車内に再び息吹いていた。
 ワイパーは視界を確保する為に激しく動いていた。
 涼介の心も自身の恋愛の行く末を知りたがる様に激しく動いていた。
「畜生・・・」
 胸を抉る痛みに耐えていた。不誠実な態度でまゆみに接し続けて来た数ヶ月間を、そして人間として恥ずべき態度で無視し続けたほんの数分前を涼介は耐えていた。
「・・・・・」
 涼介は激しい雨音に負けないぐらいボリュームを上げた。
 雨脚は前を走る車の輪郭を消す程ほど酷くなっていた。
 運転には鬱陶しさや自分のぬるさを振り払う集中力が必要になっていた。
「自分らしいって何なんだよ・・・」
 涼介は考えていた。恋愛に限らず、誠実や思い遣やりという、生きて行く為に必要で大切なものの見方や考え方に、常識や通念を流入させなければ幸せな結末と向き合えないのかもしれない事を考えていた。そして歳を取るに連れ、恋愛を重ねるに連れ、尚且つそこでまた新たに割り振られる自分へのあらゆる事象や現象を受け入れる事を良識とし、それらに決して果敢に立ち向かわないスタンスを守り、そんな知恵に自分らしさを融合させ、人間としての品格を築き上げて身に纏い、人生の秩序を見出すしかないのかもしれない事を考えていた。

 渋滞していた。
 車は小倉駅南口へ抜ける高架線ガード下でアイドリングを長く続けさせられていた。
 ガードのお陰で車内には雨音の混らない澄んだメロディが流れていた。
 南口市街へ抜ける対向車線側の歩道に一組のカップルが雨宿りをしていた。
 傘を持っていなかった。
 彼女が彼氏の腕を引っ張り、彼氏は嫌がる素振りを見せていた。
 二人は激しい雨を楽しんでいるかの様に戯れ合い、弾ける笑顔を見せていた。

    ♫無邪気に人を裏切れるほど
     何もかもを欲しがっていた
     分かり合えた友の愛した女でさえも

      〝Tomorrow never knows〟by Mr.children

「・・・・・」
 涼介はメロディを全身に浴びながら、瞳の中に若いカップルをずっと取り込み続けていた。
 車はゆっくりと前へ進んでいた。
 二人の姿は涼介を独占していた。
(マキ・・・)
 意を決しただろう男性が今度は逆に力強く女性の手を握り、ガード下から豪雨の街へ飛び出して行った瞬間、涼介は心の中でそう呟いた。
(マキ、か・・・)
 涼介は二人の背中を目で追いながら、もう一度脳裏にその名前を走らせた。
(あんな二人を見ちゃ思い出しちまうよな・・・)
 ガード下で戯れ合った後、雨の街に消えて行った二人に、涼介はずぶ濡れのマキを思い出していた。


              ▽

 付き合って半年程経った梅雨明け前の渋谷だった。
 涼介はマキの買い物に昼間から付き合っていた。
 二人は一頻り遊び、夕食後に思い掛けず入ったBARで涼介はほろ酔いになっていた。
 知らない間に街は土砂降りに見舞われていた。
 桜木町まで帰る事の出来る最終電車に乗る為に、二人は駅に続く道をずぶ濡れで走っていた。
 涼介が胸に抱えた、買ったばかりのマキのミュールを入れたバッグもびしょ濡れだった。
「雨っ、もう嫌いっ」
「・・・俺は?」
「好きっ」
 マキは笑顔で息を切らしていた。
 涼介はマキの手をしっかり握っていた。

 東横線のホームには発車を待つ最終電車が各車両のドアを全開にして停車していた。
 車内はすでに人で溢れていた。
 二人は電車に乗る前にお互いのハンカチで体を拭き合っていた。
 マキの濡れたTシャツからブラが透すけて見えていた。涼介はマキのその姿に車内でマキを守る方法をずっと考えていた。
 涼介は自分達が最後の乗客になる迄までホームに残っていた。そして発車のベルと同時に満員の車内を背中で押し、作った小さなスペースにマキを抱き込んだ。
 涼介はマキを他の誰にも触れさせない為にドアの隅に立たせ、車内に背を向けさせ、自分の両肘をドアに付けてマキを守っていた。
 マキは涼介に包み込まれていた。
 時折り二人はドアガラスに映るお互いを見つめ合っていた。
 涼介はずっとマキを守っていた。

「・・・・・」
 元住吉を過ぎた辺り、マキは涼介に合図をした後でドアガラスに息を吹き掛けた。
「・・・・・」
 涼介はガラスに映るマキの笑顔に首を少し捻った。
 マキは少しだけ曇った部分に〝やるじゃん〟と指を走らせていた。
 涼介は書かれた文字を見つめたまマキの髪に頬を寄せ、マキは文字を消した後、涼介に背中を預けていた。

              △


「やるじゃん、か・・・」
 涼介は呟いた。
 車は小倉駅から着実に遠ざかっていた。
 ワイパーは賑かに動いていた。

    ♫癒いえる事ない傷みなら いっそ引き連れて
     少しぐらい はみだしたっていいさ
     心のまま僕はゆくのさ
     誰も知る事のない明日へ

      〝Tomorrow never knows〟by Mr.children

 涼介はマキと決別し、エリカへの愛を誓っていた。しかしマキが涼介にとって珠玉の女性である事に変わりはなかった。
(あの夜、何故愛してるって言わなかったんだろう・・・)
 マキと本牧の〝司〟で差し向かった最後の夜、誠実や思い遣やり、正直や素直という〝愛情〟を形にしなかった事を涼介は後悔していた。そしてマキ以降〝愛情〟を曖昧な情熱としてでしか女性に届けられなかった素行を後悔していた。
 雨脚は強いまま街を叩たたいていた。
 車は小倉市街に蔓延っている渋滞を抜け出そうとしていた。
(自分らしい恋愛って何だろう・・・)
 一生〝珠玉〟に縛られ続ける事を覚悟し、しかも時が経つと共にその〝珠玉〟を物哀しい迄に理想化し、そして新たな女性との恋愛の中にその理想を投影し、そんな自分を唯のぬるい男なのだと無責任に括った挙句、荒んだ恋愛観に匙を投げ、しかしその都度何度も密かに自問自答して来たそんな手前勝手な命題を、涼介はある意味また何時もの様に脳裏に浮かべた。
 誰にも利用されず、誰にも指図を受けず、誰にも頭を下げない、例えそれが物哀しい理想であったとしても、涼介がそんな心のままの〝自分らしい恋愛〟を求める一己の人間で在あり続ける為には、心を開く事を頭の中で一度整理してしまう冷徹な感情の醜さを思い知る必要があった。愛情の中に包括された自己犠牲や純粋な情熱は、計算の上に成り立つ訳が無いという事を思い知る必要があった。そして涼介がそんな当たり前の事を本当に思い知り、自分の狡賢こさを理解した時、一己の人間として尊厳を得られる〝自分らしい恋愛〟を必然として手に入れる事が出来る筈だった。
(誰も知る事のない明日へ、か・・・)
 ざらついている自分の恋愛観にどんな〝けじめ〟を付ければいいのか分からないまま、涼介はシャツのポケットに手を伸ばした。
 道路は至る所に雨水が浮いていた。
 豪雨に抗う車の殆どがヘッドライトを点つけていた。
「止んでくれよ・・・」
 涼介はフロントガラスを叩く雨に一言呟き、携帯電話の電源を入れ、エリカへ送信した情熱の答えが届いているのかどうかを確認する為にセンターへ問い合わせた。

     ■受信トレイ■
     □<未開封> エリカ   2003/10/19 16:18
     □<未開封> 岡部恭子  2003/10/19 16:05
     □<未開封> 岡部恭子  2003/10/19 11:30
     □<未開封> 魚町店畑中 2003/10/19 11:05
     □<開封>  エリカ   2003/10/19 01:47
     □<開封>  エリカ   2003/10/18 22:15
              :
              :
              :

 エリカからの答えが届いていた。
 恭子からの思わぬメールも受信していた。
 ファーストフード店で電源を切り、コンビニエンスストアの駐車場で呪縛と決別し、遣り切れない思いを抱えたままエリカに情熱を送信し、腐った男だと辟易しながら再び電源を切って以降、涼介の携帯電話はエリカと恭子のメールを受信していた。
(ふぅ・・・)
 酷い雨の中、運転に必要な集中力を最低限維持しながら左手で受信トレイの中の一通のメールを開いた。

     ■受信メール■
     お疲れ〜!!!
     やっと応答したねっ!!!
     昨日は誰とエッチしてたの?😎
     ウソウソ^^
     携帯つながんないし😖😣会いたかったんだよ‼️
     今日は仕事早く終るから7時に迎えに来て
     待ってる^^
     髪の色少し変わったよ♫
     じゃね^^/
     ■エリカ 2003/10/19 16:18■

(エリカ・・・)
 涼介は心の中で穏やかにエリカの名前を呼んだ。そしてバックミラーに目を遣り、アクセルを緩め、左ウインカーを点滅させた。
(エリカらしいな・・・)
 牛後、エリカに届けた最愛の情熱が未だお互いの結論ではない事と、今夜会えないという回答かもしれない、そんな一抹の不安を抱えていた涼介は、素直な恋心が鏤められていたエリカのメールに心を打たれていた。
 車は速度を落とし、道路の端に寄り始めていた。
 左ウインカーはハザードランプの点滅に変わっていた。
(救われちまったな・・・)
 涼介はエリカへ送信する情熱を冒涜しない為に車を停めた。
〝自分らしい恋愛〟の結論を、愛情という、同じ方向を見つめ合う無償の慈しみが凝縮されたエリカのメールに、荒ませ、態と捏ねくり回していた無謀な恋愛観から抜け出す勇気を涼介は享受していた。そして罪悪感で濁り切っていた心が徐々に澄み始めて行く感覚を実感していた。更にはエリカを愛する事に何の躊躇いもない無防備な自分が存在している事をはっきりと認識し、その認識が齎す幸福感に因って忘れていたときめきや、愛する人を慕い、守ろうとする気持ちが体中に蘇って来た事に驚きも感じていた。同時に恋愛という、人間にとって必要不可欠な領域を身勝手に泳ぎ回り、しかもどんな時でも泳ぎ切る前に別の領域に潜り込み、全ての行為に付加価値を見出そうとし、常に決め付け、常に思い込んで恋愛の行く末を台無しにしていた過去の自分が愚ぐの骨頂だった事も思い知らされていた。
 激しい雨が車を叩いていた。
 涼介はシフトレバーをパーキングに入れ、ブレーキから足を離した。
 ハザードランプのオレンジが雨脚を掻い潜くぐり、点滅していた。
(エリ・・・)
 ある種感動を覚えていた涼介はエリカへ贈るメールと向き合い、緩ませていた顔を一気に引き締め、諸手を挙あげて捧げたい情愛と、理想の形を追い続けたい渇愛と、全てを包み込んでしまいたい慈愛を融合させた。


     ■新規メール作成■宛先■エリカ■
     愛してる

     7時 美容室の前で
     ■SUBMENU■編集■戻る■17:05■

 涼介はメールに綴った情熱を暫く眺め、顔が緩んでいる自分を傍観していた。
 曲を流し終えていたCDプレーヤーは、新たに曲を流すのかどうかのサインをオレンジ色の液晶画面に表示していた。
 涼介は自分の全てをエリカへ惜しみなく捧げる決心を、目に見えない何かに誓っていた。
(頼むから止んでくれ・・・)
 願いを込めて、涼介はエリカへ贈る情熱の送信実行ボタンを押した。

〝カチャッ・・・〟
 携帯電話が閉じられる音が静かに響いていた。
 助手席に投げ置かれた二つ折りの携帯電話は、メール操作後の余韻を伝える液晶の明かりが、閉じられた隙間から煌々と薄く漏れていた。
「止んでくれ・・・」
 涼介はハザードランプを消し、右ウインカーを点滅させ、もう一度ミディアムグレイの空に願いを込めた。
 世の中に止まない雨は無なかった。しかし光の差し込まない恋愛はあった。されど涼介の恋愛に重く長く纏わり付いていた暗雲は、涼介の心で躍動し始めたエリカへの真摯な愛情に因ってちぎれ去ろうとしていた。



#創作大賞2024
#恋愛小説部門
#ぬるい恋愛


ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟

美位矢 直紀


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