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音大出身の異例の芸者 | 箱根芸者物語 #4
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観光客が行き交う箱根湯本の商店街。
一歩奥の道をゆくとそこには歴史ある、箱根芸者衆が集う「湯本見番」がある。
見番が建ってから70年。今や令和の時代に。
何がどう変わったのだろうか。
変わりゆく時代に合わせ、伝統を守り花柳界文化を継承する「湯本見番」
知れば知るほど奥が深まる花柳界文化の世界。
ちょっとのぞいてみませんか。
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前3回に渡って、箱根芸能組合 組合長のお話でしたが、今回からは箱根芸者衆にスポットライトを当ててご紹介させていただきます。
今回は「音大卒業」から芸者の世界に飛び込んでいる、異例の芸者さん、琴音さんにお話を聞きました。琴音さんは現役で芸者もやりつつ、自分で置屋も持っていて、組合の役員でもある大忙しの芸者さんです。
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出身は小田原です。14歳の時から音大に行くためにピアノをはじめました。
ピアノの先生は、品川に住んでらっしゃったので、放課後は小田原から品川に通う日々でした。
音大在学中、19歳の頃にコンパニオンをアルバイトではじめました。
よく顔を出していたごはん屋さんのママさんが芸者のお姐さんだったんです。そのお姐さんに「琴音さん、芸者やってみたら?」と言われて始めたの。
当時の「芸者」のイメージは怖かったんです。実際、芸者のお姐さんって本当強烈で怖かった。私は幸運にも入った置屋のお母さんは優しいお婆さんだったのね。
そのまま5年程はアルバイトで芸者としてお座敷に出てました。
音大卒業後も、そのまま芸者の夜の仕事をしながら、昼は自宅でピアノ教室を開いて先生もやってたんです。ピアノも品川の先生に教わっていたので、品川までレッスンの為に通ってもいました。とっても大忙しな日々でした。
ピアノの先生や、親には芸者の仕事をやってることは黙ってました。
私にとっての人生のターニングポイントは、置屋を持ったタイミングでした。
(※置屋 = 芸能事務所のような場所。独立して、他の芸者を育てる事ができる)
自宅でピアノ教室をやっていたが、夜の仕事が増えてきて、朝も起きれなくなってました。
品川までのピアノ教室も通ってました。ずっと芸者をやっていることはピアノの先生には言わなかったのですが。
置屋をもったタイミングで、「家業が大変だから」と先生には伝えて、芸者になりました。
でも音楽には関わり続けたかったから、その頃からお囃子、長唄、俚奏楽を始めました。
私は、音に関わっていることが楽しい。
実は最初は、芸者に対していいイメージはなかった。周りには「枕芸者」のイメージがあるのではないかと思ってました。
だから置屋を持ってから「自分は芸のある芸者になるんだ」と強く思いましたので、踊りのお稽古や和楽器のお稽古を始めました。
私の思いとしては、より多くの芸者が芸を習得できるようになってほしいです。