「シビル・ウォー」政治的意図うんぬんよりヒャッハー世界映画として傑作
※見出し画像は公式ウェブサイトより
オレ様第一トランプさんか偉い人たちのお人形ハリスさんか、つまり「●味のカレーかカレー味の●か」(トランプさんが●でハリスさんがカレーだとか、あるいはその逆だと言わんとしているわけではありません、念のため)という命題に取り組む米国民の苦悩を思いやるやさしい人たちが大注目の映画、「シビル・ウォー アメリカ最後の日」を早速観て参りました。
映画館で観て良かった。終盤の首都ワシントン攻撃、ホワイトハウス襲撃は圧巻。リンカーン記念堂が破壊され、ホワイトハウスに迫撃砲が撃ち込まれ、オーバルオフィス(大統領執務室)でトランプさんに似た大統領が問答無用で射殺されるんですよ。一度でもワシントンに行ったことがある人なら、あーあそこで市街戦になったらこんな風になるのねと、ことさらリアルに感じられるでしょう。
中国でプーさん主席が中南海で殺されたり、北朝鮮で万寿台大記念碑がぶっ壊されたりする映画がつくれますか? 割と嫌み抜きで、これぞ表現の自由。
「もしや内戦突入?」とほんのり危惧されている大統領選の年に、その名も「シビル・ウォー」のタイトルで公開されたわけですから、制作側には何らかの意図もあるのでしょう(下世話なところでは、「これは売れるでぇ~」という商売上の思惑とかですね)。しかし、素人の感想、と断った上で、本作を米国政治の文脈よりも広く捉えていいのかな、と思いました。
すなわち、所詮相手を100%理解することなんてできないのは仕方がないとして、いがみ合いも行き過ぎると北斗の拳のヒャッハーたちが跋扈する世界線に入っちゃうぜ、という警告と受け取りました。お互い相手を許せん、と思っていても、「シビルな(礼儀にかなった)」作法をもって接しないと、最後は人を人とも思わない人倫の荒廃に行き着く、というか。ウクライナとかガザの戦場の匂いですね。
本作は、連邦政府と、テキサス・カリフォルニア両州の「西部勢力」、フロリダ州を中心とする「フロリダ連合」の内戦の渦中、敗北間近とみられている連邦政府トップ(大統領)のインタビューをゲットしようと、戦場カメラマンのリー、記者のジョエル、超ベテラン記者サミー、戦場カメラマン(志望)ジェシーの4人が、ニューヨークからワシントンに向かう、というロードムービーであります。
内戦に至った事情や、それぞれの勢力の立場などは劇中で語られません。何なら大統領の名前も分からないし、その素行についても、憲法で禁じられている3期目に入っていて、FBIを解散させた、といった悪行がさらりと紹介される程度。まあ、最初のシーンで演説の練習に励む大統領は、トランプさんに実によく似てるんですけどね。
アメリカ映画で内戦がテーマと聞くと、正義の大統領が悪の分離主義者をぶっ倒したり、良心に動かされた反乱軍が悪の大統領をぶっ倒したりして、気分爽快大団円といった展開を想像するんですが、本作の主要キャラクターはジャーナリストで、銃すら持っていない。ごろごろ遺体が転がる現場を、PRESSと大書された車とヘルメット、防弾チョッキだけで切り抜け、オーバルオフィスに到達するんですね。
戦闘シーンは迫真に迫っていても、カタルシスも勧善懲悪もない。ただただヒャッハー世界の悲惨さを、ジャーナリストという観察者の視線で思い知ることになる。
このヒャッハー世界、いろいろ恐ろしくて、まともっぽいジョエルですら戦闘の取材で興奮し、裁判もくそもない現場での捕虜銃殺を見ても何にも思わない。むしろ取材後の充実感を漂わせている。ヒャッハー世界は常人をも狂わせかねないのであります。丸腰で戦場の最前線に身を投じる記者たちも、どこかキレているわけですね。
印象的なのはやはり、赤サングラス(恐らく伊達メガネ)の兵士の兄ちゃんが、4人と行動を共にしていたアジア系ジャーナリストのボハイ君を問答無用で撃ち殺すシーン。本作を観た多くの人が言及している場面です。
赤メガネのあんちゃん、「お前らどこの出身だ」(大意)と尋ねます。ジョエル、ジェシー、リーがそれぞれフロリダ、ミズーリ、コロラドと答えると、「American(アメリカ的)だな。100%Americanだ」(大意)とうなずくのですが、ボハイ君が「ホンコン」と答えた瞬間、「China(中国)」と吐き捨てて発砲。アメリカン以外は人間ではないわけですね。
異質な者を否定する暴力の渦中における人間性の喪失、といったところなのかなあ。ボハイ君の出身がカリフォルニアかなんかで、赤メガネは「ふーん」とか言って見逃すシナリオだったら、また違ったメッセージがにじんだと思うけど。赤メガネ、もし生き残ってたら、戦後に田舎のガソリンスタンドあたりで無愛想な店員をやって、日常に溶け込んでそう。
戦闘シーンでもポップ(?)な音楽が流れたりと、重すぎて辛気くさくならないように工夫されていて、その控え目なおふざけ具合が、逆に映画全体を見やすくしているような気もします。監督・脚本は静謐で不気味な映画(失礼)「エクス・マキナ」のアレックス・ガーランド。